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 リビングにかけてあるカレンダーを見たら、9/1に〇が付いていた。

 朝はいつも飛雄の方が早く起きる。あいつは変な奴だから朝は眠いとかの当たり前の感覚を持っていない。朝=新しい一日、バレーが出来る、という小学生みたいな考え方のまま大学生になってしまったちょっと残念な子。本能のままに生きてるから、あんまり身の回りのこととか、親元を離れて生きるために必要な知識とか、そういうのが欠落している。キャッシュカードだって一人で作れなかったから着いて行かされた。天才によくある日常生活が送れないタイプだ。同郷のよしみでこっちに出てきた飛雄に夕飯を奢ってから、なんだかんだで懐かれて、怒っても蹴っても冷たくしても、しぶとく纏わりつかれるようになった。仕方がないので一緒に暮らすようになって約一年、9/1が何かの記念日だったという記憶はない。

 思い出せないままに俺は日課のランニングに繰り出した。俺と飛雄は同じ道を走らない。飛雄が俺の走るコースを聞いてきたこともあったけれど、俺は絶対に教えなかった。昔から、バレーに関することはどんなことでも飛雄に教えたくなかった。絆されるようにして一緒に暮らし出した今も、それは変わらない。もう昔のように意地になって張り合う気もないし、俺は俺に出来る最善の練習をして、チームとして勝てればいいと思っている。それでもやっぱり、どれだけ飛雄と時間を共にしても、俺たちにバレーという関わりがある限りは埋められない溝は存在するのだ。

帰宅すると、ちょうどシャワーから出てきた飛雄と鉢合わせた。

「おかえりっす」

「ん、シャワー使うね」

 濡れてぺたっとしたつやつやの髪を、すれ違い様にタオルでわしゃわしゃと乱暴に拭いても、飛雄はぐっと目を閉じて耐えるだけで文句も言わない。俺のことが好きだから、スキンシップはなんでも嬉しいのだ。こういう態度が俺の悪戯心をくすぐって、ついいじわるしたくなる。

「あ、及川さん」

汗が染みて元より濃い色になったTシャツを脱衣所で脱いで、ズボンに手をかけた俺の背中に飛雄が声をかけた。

「今日は何時に帰りますか」

「なんで」

そんなことを普段聞いてこないのに、と俺は質問に質問で返す。飛雄はあー、とかえーとか呟いて頬をかく。何か言いたいことがあるけど言えない時、飛雄はこうやってわかりやすく戸惑う。

「なんなの、今日なんかあるの?」

 カレンダーに〇が付けてあったことを思い出して、俺は比較的優しい声で言葉を促す。今日が何の日かはわからないが、何か理由があって今日の夜は一緒に夕飯を食べたいのだろうというところまでを俺は既に察していた。

「今日? 今日はえーと、知り合いの誕生日です」

「知り合い? チビちゃん?」

「え? いえ、日向は別に」

「じゃあ誰? 爽やかくん?」

「へ? スガさんは6月13日です」

「ふーん、よく覚えてんね」

 即答する飛雄に、俺は少しだけイライラした。飛雄の癖に他人の誕生日なんか覚えてて、しかもそれが爽やかくんだってことが笑える。こいつどんだけ爽やかくんのこと好きなんだよ。中学時代俺が冷たくしたからって、高校に入って良くしてくれたセッターの先輩に懐いてんじゃないよ。

「じゃあ誰なの」

「誕生日なのは大学の学部の子で」

「は? 女の子?」

 飛雄の“子”という表現に違和感を覚えて俺はつっけんどんに聞き返す。飛雄が知り合いを“子”って呼ぶなんて、どう見ても相手は女だ。

「あ、ハイ。そうっス。でも誕生日は関係無くて、その」

「関係無いなら言うなよ」

 だって及川さんが聞くから、と目を逸らして唇を尖らせる飛雄に、イライラしてデコピンをお見舞いする。イテッと言って額を抑える飛雄に気を良くして、俺はズボンと下着を一緒に下ろして、そのまま洗濯機に放り込む。

「及川さん汗かいたからシャワー浴びたいの。なんか用があるなら早く言って」

「あ、あの、今日9月1日なんで、及川さんと一緒に夕飯食べたいです!」

 俺が素っ裸で浴室のドアを開けたから、言い辛そうにしていた飛雄も観念したのか慌ててそう告げる。なんで9月1日にこだわるのかわからないけれど、汗が頬を伝って顎まで滴り落ちてきていた俺は、早くシャワーを浴びてしまいたくて「部活終わったすぐ帰る」とだけ言って浴室のドアを閉めた。

 

シャワーを浴びてリビングに戻ると、飛雄はもう大学へ行った後だったので、俺は結局9月1日の意味がわからないままその日の夜を迎えた。最寄駅から電車でたった3駅の大学に通う俺と違って、少し遠くの大学に通う飛雄は大きな体を小さなスクーターに収めて、毎朝俺より早く家を出る。だから必然的に帰りも俺より遅くて、だから寄り道をしないで帰る日は仕方なく俺が夕飯を作る。そもそも飛雄に料理をする能力があるわけもなく、二人で暮らし出してから飯と言ったら俺が作るか外食かの二択だった。今朝、夕飯はカレーだよ、と出かけたばかりであろう飛雄にスマートフォンのアプリで連絡をしたので、俺は律儀にスーパーでカレーの材料を買って帰った。

帰ってくるなりスンスンと鼻を鳴らしながらキッチンに入ってきた飛雄のあまりのペットっぽさに、俺は犬を飼いたかったことを思い出して少しキュンとした。大きな犬が飼いたかったから、ちょうどいいかもしれない。黒くて大きくて強い犬なんて、なかなかいない。ちょっと馬鹿なのが玉にキズだけど。

「及川さん、カレーの肉」

「ポークカレーだよ、ほら、温玉も」

 しゃっ、とガッツポーズをして、荷物を置きに走って自室に入る飛雄の後姿に、俺はピンとたった耳とふさふさの黒い尻尾が見えた気がした。

 

 ポークカレーは俺も好きだし、何も載ってないよりは温玉があるほうがおいしいと俺も思う。だからこれを作るのはそんなに苦じゃないし、むしろたまにはおいしいものが食べたいので飛雄の好きなトッピングのカレーを作るのは俺にとっても嬉しいことだった。でも飛雄は自分のために及川さんが作ってくれた、なんて優しいんだ、と大喜びする。はっきりそう言うわけじゃないけど、嬉しくて嬉しくてたまりません、というのが顔に出ているのだ。でも飛雄は口下手だから、滅多にそれを口にしない。

「及川さん、おいしいっす」

「まぁね。俺器用だし」

「及川さんが作るのは、なんでもおいしいです」

「なに、急に褒めたりして」

 普段無口な飛雄にしてはめずらしく饒舌に俺を褒めるので、怪しくなって飛雄の様子を窺う。もぐもぐとカレーを頬張る口元は堪えきれない喜びを湛えて少しほころんでいるし、そわそわと落ち着きのない身体は喜びが溢れて止まらない故の無意識の行動だろう。なんだかいつもより嬉しそうだった。なんで今日はそんなに、というところまで考えて今朝のやりとりを思い出す。

「あ、そうだ。なんでお前今日にこだわってたの」

 口いっぱいにカレーを頬張った飛雄が、俺の言葉の意味が分からないのか首を傾げる。

「だから、9月1日、今朝こだわってたでしょ」

 ごくん、と嚥下した飛雄が「だって」と口を開く。

「だって、今日は9月1日ですし」

「だからそれが何の日かわかんないって言ってるの」

「9と1です」

「うん、だから?」

「9番と1番です」

「は?」

「背番号」

「ん?」

「高校の時の」

「へ?」

「だから、俺と及川さんの高校の時の背番号が並んでる日だから」

 なんだそれ。いや、たしかにそうだけど、普通そんなの気付く?てか、気付いたとして記念日みたいに祝うもんなの?

「飛雄ちゃん馬鹿なの……」

 スプーンいっぱいにカレーを掬った飛雄が、なんでですか、という純粋な目で俺を見る。なんだその目は。お前は俺とお前の過去の背番号が並んでるだけで嬉しいの?そんなに俺のこと好きなの?なんなのこの子。

「ちょっとかわいいと思ってしまった……」

「お、及川さん……!」

 飛雄のなんだかよくわからない理屈での記念日設定に不覚にもかわいいと思ってしまったし、俺に褒められて飛雄も嬉しそうに手をわきわきさせてるし、今日は記念日らしく飛雄の望むような“すごくえっちな及川さん“になってやってもいいかなーと思う。

 

 

 

 

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