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 昨夜から降り始めた雪は、もう止んでしまったが、岩泉が目を覚ますと家の前から通りの向こうまで、辺り一面を銀世界に変えていた。庭のバケツに張った水は表面が凍っていて、岩泉はそれをきれいに割って大事に抱えると、数軒先の及川の家に向かった。岩泉が迎えに行くと、及川は既に庭に出て父親のシルバーの車に積もった綺麗な雪を集めて小さな雪だるまを作っていた。

「はじめちゃん、おはよっ」

及川は分厚い茶色のダッフルコートを着て、鼻を赤く染めて笑った。去年から使っているお気に入りだというふわふわのマフラーをして、黒いイヤーマフまでしていたけれど、手袋ははめられておらず、白い剥き出しの手で塀の上に載った新雪を掬って、雪だるまの身体を頭より少し大きくなるように真剣な顔で仕上げている。

「とおる」

 冷たい空気に唇までかじかんで、岩泉の声は舌っ足らずになる。寒いなぁ、と改めて思って鼻を啜った。岩泉の声に振り返った及川に、抱えていた大きな氷を胸の前に掲げると、及川は大きな目をキラキラと輝かせた。

「すごいね、作ったの? はじめちゃんかっこいー!」

 白い手を差し出して氷を触ろうとする及川に、岩泉は「手袋しろよ」と言ってその手を避けるように一歩下がる。

「ねぇ、ねぇ、これたっくんたちに見せようよ!」

 絶対びっくりするよ、と言った及川は、もう自分が作っていた雪だるまには興味を失くしたようで、表札の付いた塀の上におざなりに雪だるまを置いて、岩泉の持っている氷に手を伸ばす。

「手袋しろって」

岩泉の二度目の忠告に、及川は慌ててポケットを探った。コートのポケットから出てきたイヤーマフと同じ黒色の手袋を、及川は歩きながらはめようとして二度も地面に取り落とした。岩泉はその度にこいつドジだなぁ、と思ったけれど、そういう奴だっているもんだし、そのことを指摘するのは意地悪だと思っていたから、何も言わなかった。

及川はいい奴だし、勉強も出来るし、外で遊ぶのも好きだけど、ちょっとおっとりしているところがある。男の子の友達もたくさんいたが、同じくらい女の子の友達もいる、ちょっと変わった奴だ。見た目が女の子みたいに可愛いことを、男の子にはからかわれて、女の子には褒められる。たっくんだって、岩泉とはすごく仲良しでクラスの人気者だけど、たまに女子に囲まれている及川を見ると女みたいだと言ってからかう。その度に及川は複雑そうな顔をして眉を下げて困っているが、岩泉からしたら、男に向かって女みたいだなんて言うのは意地悪だし、及川だって嫌なら言い返せばいいのにと思う。

「それさ、どうやって作ったの?」

「朝起きたらバケツの水凍ってた」

「えー、いいなー!」

 岩泉から氷を受け取った及川は、ご機嫌になって変な鼻歌を歌いだす。岩泉はその調子外れの明るい歌が、地元の小さい遊園地のテーマソングだと途中まで聞いてやっとわかった。及川は朝でも昼でも夜でも、まして友達から女みたいとからかわれた後でさえ、すぐ今みたいに変な鼻歌を歌いだす。立ち直りが早いのか気にしないようにしているのか、とにかくいつでもご機嫌で、そういうところがおもしろくて好きだった。

「ふんふんふふーん」

「ベニーランド川」

「なにさー」

 及川が足元の雪の塊を蹴って、岩泉にかける。悪戯が成功してご満悦の表情で笑って、岩泉の反撃が始まる前に及川は駆けだした。

「こらまて!」

「あははは!」

 岩泉は足元の雪を掴んで、及川の背中に向かって投げた。雪玉が当たるか当たらないかの時、及川の笑い声が中途半端に止んだと思ったら、身体が傾いて、岩泉があっと声を上げる間もなく及川は派手に転んだ。

「徹!」

 慌てて駆けよると、及川の身体はずっぽりと雪に埋もれていた。このぶんだと、雪がクッションになっていて痛くはなかっただろう。及川は万歳の体勢で、手だけ上げて持っていた氷が割れないようにしていた。おかげで手を付くことができずに顔面から雪に埋まってしまったのだろうが、岩泉はそれがおかしくて声を出して笑う。

「ばっかだなー、徹」

「つめひゃい」

 及川の身体を引っ張って起こしてやる。及川は氷を大事そうに抱えて、割れていないか確認している。しゃがみこんでコートや髪に付いた雪を払ってやりながら、岩泉は及川の赤い顔を覗き込んだ。冷たい雪に顔を埋めていたので、頬も鼻も全部赤くなっている。

「ぶさいく川」

「うぅ……」

及川が寒さに鼻を啜るのを見て、そう言えば今朝、母親からポケットティッシュを持たされたことを思い出した。

「えーと、あ、ほら」

 ズボンのポケットを探って出てきたティッシュで、及川の顔を乱暴に拭いてやる。ごしごしとこすって、鼻をぐいっと拭けば、衝撃に及川は「ぶぇ」と変な声を出した。

「よし、きれいになったぞ」

「おかあちゃんみたい」

「うるせー、遅刻するぞ」

 岩泉の言葉に及川は慌てて起き上がり、二人はまた雪道を歩きだした。

「なぁその氷、おまえが見つけたことにしろよ」

「なんで?」

 なんとなく、そうすればいいような気がしたのだ。学校に着いたら、この氷を見せてみんなを驚かせる。その時に、この氷を持ってきたのが及川だと言えば、きっとたっくんも及川に女みたいだとか言わなくなるような気がしたのだ。でも、それをうまく伝える言葉が、岩泉にはわからなかった。

「なんとなく」

「なんとなくかぁ。変なはじめちゃん」

 及川のことをからかわれるのが嫌だった。けど、それは及川の問題だし、岩泉が口を出すのはいけない気がした。もし及川が、からかわれるのが嫌だと岩泉に助けを求めて来れば、いつだって味方になるつもりだったけれど、当の及川はちょっと困った顔をするものの、すぐにいつもの明るくてご機嫌な様子に戻ってしまう。

「なんでもいいから、それお前が見つけて持ってきたことにしろよな」

「えー、いいの? はじめちゃんが持ってきたのに……」

「いいから」

 不思議そうな顔でこちらを見る及川の顔を無理矢理押して前を向かせる。乱暴! と抗議の声が上がったけれど、岩泉はそれを無視して歩いた。

 学校に着くと、たっくんたちと及川の持ってきた氷でひとしきり遊んだ。たっくんは、及川すごいな、と氷の欠片を掌の熱で溶かしながら言った。岩泉はそれを聞いて、なんとなく心の中のもやもやが取れた気がした。及川は普段少し意地悪なたっくんに褒められて照れくさそうに笑った後、振り返って岩泉を見て口の動きだけで「ありがとう」と言った。岩泉は及川の照れくさそうな笑顔がくすぐったくて、慌てて顔を逸らした。

 

 放課後、下駄箱で靴を履きかえていると、及川が走ってきた。

「はじめちゃん、一緒にかえろ!」

お昼を過ぎても雪は溶けなかくて、外は相変わらず真っ白だった。

「ふんふんふふーん」

「お前今朝もその歌だったぞ」

「だってね、昨日テレビ見てたら何回も出てて! なんか忘れられないんだよね~」

 及川のせいで、岩泉も今日は一日その歌が頭を回っていた。あの遊園地に最後に行ったのはいつだっただろうか。そう言えば最近行っていない。

「あれ?」

 声につられて隣を見ると、及川は数歩後ろで立ち止まって、コートのポケットやズボンのポケットを探っている。

「どうした?」

「んー、ない……」

「何が?」

「てぶくろ」

 ダッフルコートのボタンを外して、あるはずもないのに内側まで確かめる及川に、岩泉は一緒になって体中を探す。ポケット全部と、ランドセルの中、ないだろうが、岩泉のコートのポケットまで探したが、今朝あった黒い手袋が見つからない。

「あーあ……おれ去年も失くしたんだよね……またおかあちゃんに怒られる」

 しょんぼりと肩を落とす及川を見ていると、可哀想でなんとかしてやりたいという気持ちになる。

「学校にあるかもしんねぇだろ? 明日一緒に探してやるよ」

「うん……ありがと……」

 普段の明るい姿と違い、悲しそうにうなだれる及川に、岩泉はなんとか元気を出させようと思案する。

「な、じゃあ今はこれつけとけよ」

 岩泉は自分のはめていた手袋を外して、及川の赤く悴んだ手を取って半ば無理矢理押し付けた。ずっと手袋を付けていた岩泉の手の温かさと比べて、冷たい風にさらされていた及川の手の冷たさに少し驚く。

「でも、そしたらはじめちゃんの手は?」

「俺はもうあったかくなったからいい」

 岩泉は及川の手を取って、右と左を確認して及川の手に自分の手袋をはめてやる。

「はじめちゃんは優しいね」

「べつに。ふつうだろ」

「かっこいいなぁ」

 本心から出た言葉だろうそれに、岩泉は気恥ずかしくなって顔を逸らす。

「べつに、ふつうだって!」

「それ! それがかっこいい! 俺も言いたい!」

「なんだそれ」

 興奮してかっこいいを連呼する及川に、笑ってしまう。及川はいつもなんだかおかしくて、岩泉は笑ってしまうのだ。変な奴だと思う。そういうところが気に入っている。

「あ、そうだ!」

 及川は頭に付けていたイヤーマフを外すと、

「じっとしててね」

 と言って岩泉の頭にそっとつける。耳を覆うそれが及川の熱で温まっていて、冷たい風に晒されて赤くなっていた耳にじんじんと熱を伝えた。

「はい、これお返し」

「べつにいいのに」

「だってはじめちゃんいつも耳さむそうだもん」

「俺は寒さなんて感じない」

「なにそれかっこいい!」

 俺も言いたい、とまたかっこいいを連呼する及川に、岩泉が笑うと、及川もつられて笑った。今朝より少し汚れている雪の中の、まだ手つかずのきれいな雪を集めて、丸めて及川に向かって投げる。及川が高い声を出して避けて、雪玉は後ろの塀に当たって潰れた。もう一度雪を集めて顔をあげると、岩泉に向かって雪玉を投げようとする及川が見えて岩泉は慌てて身をかわした。まだ声変わりをしていない二人分のボーイソプラノが、人気のない道に鈴の音のように響いた。及川が付けてくれたイヤーマフが、外界の音をゆるやかに消して、辺りはいつもよりずっと静かな気がした。及川の笑い声だけが、イヤーマフを通して岩泉の耳に届いていた。

 

 

 

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