top of page

(サンプル) 

 

1 

 

 夜の二十二字時を過ぎて帰宅した時、その日はまだいつもと同じつまらなくて平凡な一日だった。散らかった机の上でスマートフォンのバイブレーションが機械的な音を立てて、ディスプレイに表示されたナンバーは知らない電話番号だった。普段はそんな時間にかけてくる知らない番号には出たりしないけれど、その時はなんとなく気になったのだった。だからもしかしたら、それが虫の知らせというやつだったのかもしれない。電話口で名前を告げられて、余りに懐かしい響きに一瞬にして、十八歳のあの頃に戻ったような気がした。

「岩泉さん、急に電話してすみません。急ぎの用だったんで」

「おう、どうした」

「及川さんと連絡がつかないんですけど、岩泉さん何か知りませんか」

 懐かしい名前だった。岩泉は及川の名前を聞くと、ボールが弾む音、強い照明、大きな声援、あの頃の自分の世界の全てだったものがフラッシュバックして、一気に頭の中に溢れ出した。高校生、バレーボールに打ち込んだ青春。大会で全国に行って、そしてその後の人生もバレーが続くと漠然と信じていた。未来が確定したのは、いったいいつだったのだろう。高校生のあの頃は、あの頃にしかわからない何かが確実に存在していた。いつも一緒だったチームメイト。喧嘩しても、当たり前のように一緒にいた幼馴染と自分の不思議な絆を思い出した。

 及川徹は岩泉にとって、かつて最も大切な存在だったと言っても過言ではない。でも、それもいつの間にか変わってしまった。高校最後の春高で、岩泉たちは負けて、皆バラバラの進路を選んだ。及川は東京の大学にバレーの推薦で行って、岩泉は地元の大学でそれなりにバレーをした。大学のバレー部には自分より強い選手はいなかったけれど、岩泉には高校の時からの彼女がいて、大学で出来た新しい友達は岩泉に新しい刺激をもたらして、それなりに楽しい大学生活だった。週に一度か二度バレーをして、それ以外の遊びも知った。もうその頃、岩泉は勝負の世界から下りてしまっていた。

 岩泉と違ってバレーの推薦で東京に行った及川は、大学の四年間ずっとバレーの世界で活躍した。たまに地元に残った友人たちとOB会で会っては、及川の噂話をした。誰も及川と連絡を取っている者はいなかったし、及川はほとんどこっちに帰ってきていないようだった。違う世界の人間だなぁ、なんてたまに集まると皆で話したりもした。あんなに才能がないと嘆いていた及川が、結局彼ひとりだけ大学バレーで活躍しているのはちょっと悔しかったが、それでも及川の実力から考えれば、岩泉には当然のことのようにも思えた。もう昔みたいに悩んだり嘆いたりせずに、皆に認められる才能ある選手としてバレー界で活躍しているんだろう、なんて、今から思えば楽観的に考えていた。いつからだったのだろう。岩泉は及川のことが、よくわからなくなってしまっていたのかもしれない。いつの間にかバレーを始めた頃のような関係とは変わってしまっていた。なんだかんだと自分に言い訳をして東京に行った及川と連絡を取らなかったのはそのせいだろう。忙しいとか、世界が違うとか、そんな言葉で誤魔化していたのだ。

 影山が言うには、数カ月前まではメールをすればたまに返事が来ていたそうだが、ここのところずっと返事がないそうだ。学生時代あんなに嫉妬して嫌っていた影山と、及川が連絡を取っていることに正直驚いたが、影山も東京に進学して大学でバレーをして今も実業団でプレーしているのだから、繋がりもあるのだろう。そこには当たり前なのだが、岩泉の知らない及川がいた。

 岩泉の職場は、仙台市内の便利なところにあった。及川の実家にも一時間とかからず行くことが出来る。今は一人暮らしをしているから、そっちの方面に行くのは遠回りになるが、会社の帰りに寄って及川の両親に聞いてみるから、と影山に行って岩泉は電話を切った。でも、及川がずっと実家に帰って来ていないことは大学の頃からたまに及川の母親がこぼしていた。影山にはああ言ったが、及川の実家に行っても何の解決にもならないだろうことは、岩泉もなんとなく気付いていた。

 翌日、及川の実家に行った後、岩泉は一大決心をした。翌日会社に行くと、金曜日に休みをもらえるように上司に掛け合った。岩泉の仕事は週休二日制だったが、土日のどちらかは出勤日だった。今週は土曜が休みで日曜が出勤だったので金曜に休みをもらえたら二連休になる。上司はぶつぶつと文句を言っていたが、滅多に有給を使用しない岩泉のたまの我儘をさすがに断れなかったのだろう。

 金曜日の朝、岩泉はまず及川の実家に向かった。及川の両親はやはり及川の近況を知らなかった。岩泉の母親同様、及川の母親も年をとっていて、記憶よりずっと弱弱しく見えた。及川の事をとても心配していて、幼馴染の岩泉が訪ねて来るととても喜んでいた。もし徹に会えたら、帰って来なくてもいいから無事でいることを連絡するように伝えてほしいと目に涙を浮かべて懇願された。及川家にとって末の息子であり、昔から将来を嘱望されていた及川は、母親にとっても気がかりだったのだろう。年老いた親をこんなにも心配させる及川は、大馬鹿野郎だと思った。徹に電話しても留守電になる、と心配そうな顔をする及川の母親に、岩泉は今現在及川が住んでいる住所を聞くと、その足で仙台駅に向かい、東京行きの特急に乗り込んだのだった。及川はきっと誰からの連絡も受け取らないだろう。あんなふうに過去の友人たちとの連絡を絶った及川に会うには、もう直接足を運ぶしかないと、始めからわかっていた。

 及川の母から渡された、住所を書いた小さなメモを確認する。番地もアパートの名前も合っている。駅から少し離れた閑静な住宅街にひっそりと建つ古びた二階建てのアパートが、及川の住んでいる場所だった。岩泉の知っている及川のイメージと、錆びた鉄筋が剥きだしの物悲しい雰囲気を漂わせるアパートはほとんど対極のような気がして、岩泉はメモの切れ端に書かれた及川の住所をもう一度見直す。間違いなくこの建物だった。カンカンと音が鳴る階段を踏みしめて上ると、二階の右端から三番目の部屋が及川が住んでいるはずの場所だった。表札はなかった。チャイムを鳴らしてみても、案の定返事はない。ドアのすぐ横の格子付きの窓の中を覗き込もうとするが、暗くてよく見えない。仕方なくその場を後にしようとした時、階段の下から老齢の女性が岩泉をいぶかしげに見つめているのと目が合った。一瞬ドキリして固まる。不審者だと思われただろうか、挨拶をするべきだろうか。岩泉があれこれと考える内に、女性の方が先に口を開いた。

「あなた、及川さんのお知り合い?」

 女性はここのアパートの管理人で、彼女曰く及川は入院中だそうだ。入院しているから可哀想だし言いにくいんだけど、先々月の家賃もまだもらえてないのよねぇ、連絡しようにも携帯出てくんないし。ほんと、こっちも収入が無いと困るから、そういうの迷惑なのよ。あなたちょっと言っといてくれる?一方的にそう言うと、彼女は「及川さん友達いたのねぇ」と呟いて去って行った。その後ろ姿に、お前が及川の何を知ってるんだ、と言ってやりたかったけれど、それを言う権利は、今の自分にはないのだと気付いて岩泉は唇を噛み締める。十八歳の頃のような底無しの度胸も瑞々しい肉体ももう無く、ただただ岩泉は掌の中の紙切れを握り締めた。及川の住んでいる場所すら、今の今まで知らなかった自分は、果たして友達と言えるのだろうか。

 岩泉は、鬱々とした気持ちで郊外の病院に向かった。知らない街で、知らない電車とバスを乗り継いで病院に行くのは、その目的地も相俟って、言い様も無い心細さを感じた。及川のいる病院が、古くて汚くて今にも幽霊の出そうなところだったらどうしよう、と思う。そういう場所は、あの記憶の中のキラキラした及川に似合わない。そう、あの古いアパートも、意地悪で冷たい管理人も、及川徹という人物のいるべきところじゃない。あの輝かしかった青春の中で、最も眩しく鮮麗に、華々しく記憶に残っている男が、こんなことになっているなんて。まるでそう、岩泉自身の青春を否定されたような気もした。

 及川の入院しているという病院は、岩泉が思っていたのと違い、大きくてきれいな病院だった。中に入ると、見舞いに来ている家族らしき健康そうな人々と、ここの入院患者だろう痩せて点滴を付けた、ラフな格好をした人々がごちゃごちゃと入り混じっていた。生と死の象徴が入り混じったようなその光景が異様なものに感じられて、岩泉は病院が嫌いだった。受付に行って、及川徹の見舞いに来た、と言うと、看護師は岩泉の顔をちらりと確認した後、手元の紙を捲って機械的な声で「四〇五号室です」と言った。

 四〇五号室は大部屋で、部屋の外には及川徹以外にあと三つ名前が連なっていた。部屋に入ると、左右に三つずつ並んだ白いベッドがあって、手前の四つはカーテンが開いていた。一人は外出中だろうか。部屋の奥の大きな窓は空いていてほんの少しだけカーテンが揺れていたけれど、余り風は感じられなかった。部屋の中はしん、と静まり返っていて、規則正しい呼吸音だけがこの部屋の患者たちがまだ生きていることを示していた。足音を殺してそっと近付くと、いい加減に閉められたカーテンの隙間から左側のベッドの中が覗けた。頭髪の薄い男性がベッドに横たわって、どこを見るでもなく虚空を見つめていた。その姿になんとなく恐怖を感じて、岩泉は慌てて目を逸らす。となると、右側が及川のベッドなのだろう。岩泉はきっちりと閉められたカーテンの前で、及川、と声をかけようと口を開いて、それから左側のベッドの男性を思い出して口をつぐんだ。なんとなく、声を出してはいけない気がした。そっとカーテンの端に手をかけて隙間から中を覗く。呼吸器を付けた及川が、白いシーツを胸元までかけて、まるで入院患者の模範生のように行儀よく眠っていた。

「及川」

 岩泉は控えめな声量で呼びかける。少し待っても及川からは何の反応も無く、呼吸器のせいでくぐもった寝息が聞こえていた。

眠っている友人の部屋に入って黙って隣に座っているのは、いけないことのような気がした。けれど、寝ている病人を起こすのはもっといけないことだと思い、黙って及川の顔を見つめる。記憶の中の及川よりも一回りも痩せて見えて、病院のベッドが白すぎるせいだと思った。こんなところに寝ていては、健康な人間でも弱って見える、と岩泉は心の中で呟く。及川は元気になるだろう。もともと運動をしていて、体も大きくて、健康的な奴だったのだから、急に病気になって死んだりする確率は低いはずだ。岩泉は自分に言い聞かせるように心の中で繰り返す。及川の病気について、岩泉は何も知らなかったけれど、誰に聞けばいいのか、果たしてただの友人である自分が教えてもらえるのかもわからなかったので、ただ黙ってしばらく及川の隣に座っていた。

 そうしていても及川は一向に目が覚めず、いつの間にか二時間が経っていた。もう時刻は一六時半を回っている。岩泉はそっと布団の横からはみ出している及川の手に触れた。温かい手だった。そっと握りしめる。長くてきれいな指だな、と今更ながらにそんなところに目がいって、そう言えば高校時代、こいつは俺のセッターだった、と思い出す。俺を信頼して、俺をエースと呼んでいた。目頭がじんわりと熱くなって、思わず握った手に力がこもる。及川は握り返してこなかった。あの頃は、及川のトスを受けた岩泉のスパイクが決まって、興奮して手を力いっぱい叩きつけるように握り合ったりしていた。あんなにも強い力で握り返していた男が、今は少しも応えようとしなかった。規則的な呼吸を繰り返して、シーツの下の胸がゆっくりと上下に動いていた。岩泉は居た堪れなくなって、及川の手を離すと、来た時と同じように音も立てずに外へと向かった。

 

 

bottom of page