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変身譚

 

 ある日、岩泉が帰宅すると、及川が長い手足を器用に抱えて、丸くなってベッドの隅に横になっていた。

「ただいま」

 きれいに丸まっている背中に一応声をかけたけれど、及川は返事どころか微動だにしない。眠っているのか機嫌が悪いのかどちらか判断が付かなくて、岩泉はそのまま黙って一人で遅い夕飯を食べて、そして風呂に入った。

「及川」

 風呂から上がった岩泉が寝室に入ると、先ほどと全く同じ姿で及川がベッドの上にいた。呼びかけてもまるで反応はなくて、無視されているのだろうとは思うが、理由も思い当らないし、なんだか不気味な感じがした。

 その時既に時刻は夜の九時を回っていて、平日にあまり夜更かしはしたくなかったので、さすがにもうそろそろ、と思って岩泉は少し緊張しながら丸まっている背中に手を伸ばす。ぐっと力を入れて体をこちらへ反転させる。岩泉がほとんど力を入れない内に、及川はぐるっと勢いよく振り返った。丸いアーモンド型の茶色い瞳が感情を湛えずにこちらをじっと見つめていて、そしてどこからかごろごろ、と音がした。

「え?」

 及川は目を閉じて、肩に置いていた岩泉の手にじゃれるように顔を擦り付ける。そしてまたごろごろごろ、と音が鳴る。

「及川、お前」

 気持ちよさそうに目を閉じて、岩泉の手に頬を摺り寄せる及川の喉から、猫が喉を鳴らすみたいな音がしていた。

 

(中略)

 

 温度を調節して蛇口をひねってお湯を出す。指先で温度を測りながら、猫ってどれくらいの熱さのお湯に入るんだろう、という疑問が頭を過った。

「いやでもお前は人間だよな……」

 振り返って及川を見ると、風呂の冷たい床に座り込んで、爪先でタイルを引っ掻いている。色々な尊厳は失われていそうだが、それでも確かに人間である。

「じゃあまぁいつも通りで行くか……」

 指先に触れる水が温かくなってきたので、シャワーヘッドを持ってその先を及川の方に向けた。お湯は勢いよく及川の顔に向かって飛んでいき、頭の天辺から胸元まで一気に濡らした。瞬間、及川は漫画みたいにビクッと体を跳ね上がらせた。

「あ、わり……」

 及川は床に座ったまま、大きなアーモンド型の瞳を真ん丸に見開いて体を硬直させていた。言葉はなくとも「私は今びっくりしています」というのがはっきりわかる表情だった。慌ててシャワーを浴槽に浸けて、硬直している及川の身体を上から覆うようにして頭から抱きしめる。

「悪い、急でびっくりしたよな。ほんと悪かった、もうしないから」

 そんなに驚くとは思わなかった、と思わず謝罪の言葉を繰り返しながら顔を拭ってやる。及川は腕の中でじっとしていたが、息苦しかったのかしばらくするともぞもぞと動いて、岩泉の腕の拘束から頭だけ抜け出す。そしてその丸い瞳で岩泉を見上げて、何か言いたげに口を開いた。しかし、「にゃあ」とでも言うように小さく開かれた口から音が発されることはなかった。

「怒ってんのか?」

 濡れた前髪が額に張り付いているのを払ってやりながら、露わになったきれいな形の額を撫でる。この額が好きだった。普段は少し長めの前髪を横に流しているので目にすることはないが、及川は額の形も綺麗で、前髪を上げるのもとても似合っている。他人は見ることのできない隠されている部分を、自分だけは見ることができるという優越感が堪らなかった。だから岩泉は、寝る前やセックスの最中に、こうして髪をかき上げて白い額をよく愛でた。そういう時、及川はいつも小さく息を吐くように笑っていた。少し擽ったそうで、とても嬉しそうだった。

「いいこだな」

 気持ちよさそうに目を閉じて、額を撫でる手に頭を摺り寄せる及川の姿は、住宅地の駐車場の隅や神社の鳥居の下にいる野良猫と同じだったけれど、嬉しそうに目を閉じて甘える仕草は、あの鼻にかかった吐息と笑い声が聞こえてくるような気がした。

「猫でも変わんねぇな……」

 小さく呟いて、岩泉は浴槽からシャワーヘッドを取り出して、及川の足元にそっとかけた。

 今度は怖がらせることもなくお湯をかけることが出来た。及川は大人しくて、風呂に入る前の格闘が嘘のようにされるがままだった。シャワーヘッドを持って、頭を軽く抑え髪を濡らす。目にお湯が入らないように気を付けながら、シャンプーを垂らした手を及川の癖っ毛に通した。

「よーし、目瞑ってろよ」

 及川はアーモンド型の瞳を見開いて、岩泉の言葉を聞いていた。まぁ動物だし、目に入りそうになったらちゃんと閉じるだろうと気にせずに続ける。

 岩泉が思っていたよりずっと、他人の頭を洗うのは難しいことだった。初めは気持ちよさそうにしていた及川も飽きたのか途中で嫌々をするように首を振って、泡が四方に飛んだ。岩泉が抑えるとすぐに大人しくなったけれど、それでもやっぱり嫌がることを無理矢理するのは気が咎めて、シャンプーもリンスもそこそこにしてさっさと終わらせてしまった。頭からシャワーをかけている間、及川は大人しくて、目をぎゅっと閉じて俯いていた。猫は風呂を嫌がると聞いていたけれど、及川は人間だから水は怖くないのかもしれない、と考えながらボディソープをネットで泡立てる。

 首から肩、背中、そして前に回って胸から腹、そして腕までを泡立ったネットで洗う。及川はくすぐったいのか身を捩ったり、気持ち良いのか岩泉の肩口に顔を埋めてみたりして、そういう姿は純粋に可愛かった。いつもの及川よりずっと幼くて、甘えたで、そして岩泉も何の気兼ねもなく甘えさせられた。

「よーしよし、次は尻とちんこ洗うから腰上げろよ~」

 甘えて縋り付いてくる及川の背中を抱きつつ、そのまま尻を洗う。がっしりとして筋肉の付いた硬い尻を撫でて、それから抱きついてくる及川を引き剥がし、今度は前を洗う。いくら及川相手でも、いい年した男の身体を隅々まで洗ってやるなんて、我ながら変なことをしているなぁとおかしくなって少し笑った。性器を手早く洗うと、そのまま下に手を滑らせて太ももや足を洗った。及川の身体に付いた泡を流し終えると、岩泉は及川を立たせて浴槽に導く。お湯はちょうどよく温まっていた。

「ほら、いい子で入ってろよ」

 狭い浴槽の中で長い足を折りたたんで座る及川を見ながら、手早く汗を流す。

「お前が静かに風呂入ってるの珍しいよなぁ」

 普段鼻歌をうたったり脱衣所にいる岩泉に話しかけてきたりと煩い及川の姿を思い出しながら呟いた。及川は聞こえているのかいないのか、ちらりと岩泉を見ただけでまた黙って湯に浸かっていた。

 岩泉自身は先ほど風呂には入っているので、身体を洗うのを適当なところで切り上げて、及川を引っ張って風呂から出す。普段よりずっと短い入浴だが、猫のような及川がどれくらいでのぼせるのかもわからないので大事をとってだ。

「ほら、もういいだろ」

 湯船から出ると、及川はぶるりと大きく体を震わして、水滴を全方位に飛ばした。

「あー、てめっ」

 岩泉はなんだかおかしくなって、笑いながら洗い立てのふかふかのタオルで及川を頭から包み込んだ。にゃあ、ともなぁ、ともつかない低めの声で鳴いた及川は、雑な拭き方に抗議しているようで尚更おかしくなって笑った。

 

 ベッドの上に胡坐をかいた岩泉の膝の上に及川が頭を乗せて寝転がったまま、何が気になるのか電源の入っていないテレビ画面をじーっと見つめていた。その姿をぼんやりと見つめながら、岩泉はドライヤーを及川の髪に当てる。熱くならないように動かしながら、なんとはなしに及川の首筋を指でなぞった。えっちしたいの、と笑って振り返る及川の姿を思い出す。現実は、ぐるりと首を回してこちらを見上げる及川がいるだけだ。茶色の丸い瞳には何の感情も読み取れなかった。何か言いたげに口を少しだけ開いた及川が、今にもいつも通り「岩ちゃん」と呼びかけて来そうな気がして、しばし黙って見つめ合っていたが、岩泉はぺしっと及川の額を指で弾く。

「お前のせいでもう一時回ったぞ」

 明日も早いのに、と呟いてドライヤーをしまうと、岩泉は部屋の電気を消した。窓から薄ぼんやりと月の光が差しこんで、ベッドの上に座り込む及川を照らしていた。逆光の中で、及川の影は黒く大きくそこにあって、目だけが爛々と輝いていた。岩泉は黙ってベッドに入って、及川の頭を撫でた。

「もう今日は寝ろ。俺がなんとかしてやるから」

 岩泉は布団に入るとすぐ、及川も同じように岩泉の隣に寝転がって、そうしてしばらくすると規則正しい寝息が聞こえて、岩泉はやっと目を閉じて眠りに落ちていった。

 

 

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うっかりまちがってねこ

 

 

 その日は夕方から土砂降りの雨で、駅の南側の坂の下に建てられた安いマンションまでの道も、小さな川みたいに雨が流れていた。線路の下を抜ける歩行者専用の小さなトンネルも例外ではなくて、ざぁざぁという雨の音がこだまする暗くて寒いこの場所で、小さくてあたたかい命である岩泉は、異物だった。

 だからすぐにその青年も気付いて、傘を持ったまま岩泉の前に立ち止まった。岩泉のいる汚い段ボール箱は、雨が染み込んでびしょびしょで、ほとんど入れ物の役割を果たしていなかった。汚い箱と同じように真っ黒の毛をびしょびしょにした岩泉は、みすぼらしく、痩せていて、ところどころ怪我もしていたけれど、釣り上がった獰猛な瞳が人を寄せ付けない野生の強さを帯びていた。

「そんな怖そうな顔してるから、こんな遅くまで貰い手が付かなかったんだよ」

 足元を流れる水を気にせずに、青年はその場にしゃがみこんで岩泉に話しかけた。懐かしい声に、岩泉はとても嬉しくて、でも嬉しいと素直に言うのは恥ずかしくて、ただ彼を見つめるだけで、鳴くことすらしなかった。青年は及川徹といって、かつて、岩泉の最もよく知る人だった。

「雨、明日も降るって今朝の天気予報で言ってたよ。こんなとこにずっといたら、流されちゃうよ。雨宿りするとこ、見つけないと……」

 及川は逡巡するように一度トンネルの外を見た。すぐ向こうに及川の暮らすマンションが見えていた。こんなに濡れて汚い猫を、及川は連れて帰りたがらないだろうか、という不安が一瞬、岩泉の脳裏をよぎった。けれど、及川は「大丈夫だよ」と呟いて、岩泉に手を伸ばした。岩泉は抱きやすいように大人しくその手を受け入れた。

「なんだ、野生の癖に人馴れしてるね」

 湿った毛を優しく撫でながら、及川は岩泉に向かってにっこりと笑った。きれいな薄い唇が柔らかく弧を描いて、岩泉は今すぐにでもその唇にキスしたかった。岩泉の手は小さく丸く、身体はしなやかで人間の頃よりずっと自由だったけれど、及川に抱きしめられると身動きが取れなくなるほど小さかった。

 

 

 

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