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「あ~!」

 今日の仕事は全部終わった、風呂にも入って後は寝るだけ、という優雅な時間を過ごしていると、ローテーブルでパソコンを見ていた及川が急に大きな声を出した。

「こわい!」

 岩泉が何事か尋ねるより先に、及川は猫のように俊敏にベッドに飛び乗り、肉体改造特集が載った雑誌を読んでいた岩泉に飛びついた。慌てて雑誌を放って、飛び付いてきた及川の身体を支えるために、岩泉は彼の腰に手を回して受け止めた。

「めっちゃ怖い画像のURL踏んじゃったよ~」

 ぐりぐりと洗い立ての柔らかい髪を岩泉の胸に頭を擦り付けて甘えるような仕草をする及川に、いつもと違う感じを覚えて岩泉はぽんぽんと頭を撫でた。怖い画像くらいでこんなに甘えないよなぁ、と首を傾げる。

「お前パソコン苦手なんだから変なサイト見るなよ……」

 バレー三昧の生活を送ってきた及川にとって、パソコンはそこまで慣れ親しんだものではない。連絡、調べもの、動画検索と言ったバレーに関することでしかパソコンを使う機会がないまま今まで来てしまった。それはきっとこれからもそうだろう。少なくとも、バレー選手として現役を張っている限りはパソコンの詳しい知識は身につかないし、会社で及川が配属されている部署にも必要な知識ではなかった。

「だって俺のこと書いてあったし~」

 岩泉の胸に顔を埋めてもごもごと言って、及川は岩泉に抱きつく腕に力を入れる。

「あ、またお前代表スレ見てたのかよ。くだらねぇもん見るなっつったろうが」

 及川の頭を掴んで体から引き離す。拗ねたように唇を尖らせる及川の頬をぎゅっとつまんだ。及川はだって、と言い訳を口にしようとして、でも何も思いつかなかったのか、それとも言うべきではないと思ったのか、結局何も言わずに目を逸らした。

 及川はその見た目と実力から大学バレーで活躍し出すとすぐに話題になった。日本代表に選ばれた今では、スポーツ雑誌から女性向けファッション誌まで、様々な分野で取り上げられる。女性を中心に及川のファンは多く、また近年では及川のメディアへの露出をきっかけに男子バレー自体の注目度も上がった。しかし、そうなるともちろん、及川を嫌いだと思う人の数も増える。ネットである事ない事、誹謗中傷されてしまうのは有名なスポーツ選手に付き物だった。しかも、及川の場合はこないだまで怪我で戦線を退いていたこともあり、他のバレー選手たちと比べて掲示板でのスレッドの回転率が凄まじいことになっていた。

「だってさぁ~、気になるし……」

 及川は視線を逸らして不服を表す。気になるのはわかる。正直何が書かれているのか気になって、ニュース等で及川の話題が出るとつい岩泉も見てしまう。肯定的な意見や応援のコメントを目にして嬉しくなることもあるが、でも結局は嫌な思いをすることの方が多く、月並みだが見ないようにするのが一番だという結論に達していた。

「嫌なこと書いてあっただろ」

 頬を膨らませる及川の顎を犬や猫にするように優しく撫でる。男にしてはキメの細かい肌が指先に心地よく、及川も満足気に「んー」と言って目を瞑った。顔を上げて目を瞑っているそのキスを待つような仕草に、あざといなぁと眉間に皺を寄せる。こういうあからさまな仕草に引っかかるのは馬鹿な男だと思うが、好きな相手がしていると可愛いと思ってしまう。

「うん……しかも目真っ赤の怖い顔した女の子の画像まで貼られてた……俺そういう画像無理なのに……ひどい……」

 及川のことが書かれている掲示板のスレッドにはよくあることだが、ファンやアンチ、更にはかき乱したいだけの訳の分からない層まで溢れかえっているので、スレッドは及川に関係無い話や画像が貼られたりする。きっと及川の画像と称して怖い画像が貼られていて、ネットに慣れていない及川は怪しいURLを確認もせずうっかりクリックしてしまったのだろう。だからそんなスレッド見ても何にもならないのに、と思いつつ、気になってしまう及川の心境も察せられて、岩泉は及川の頭を優しく撫でた。

「一緒寝るか」

「うん」

 ぐすん、と泣き真似なのか半分本気なのかわからない声を出す及川の前髪を優しくかき上げる。しがみついてくる及川の顔を覗き込むようにして問えば、甘えられるのが嬉しいのか、背中に回した手に更に力が込められた。

「お前は頑張ってるよ」

 左分けの髪を優しく梳いてやりながら言えば、及川はうん、と言って岩泉の胸元に顔を埋める。甘える仕草が子どもみたいに見える。大きな子どもだ。

「スゲー選手だし、ちゃんと才能もあるし努力もしてる」

 言い聞かせるような言葉に、及川は答えない。自身の才能について、及川は絶対に驕らない。けれど、岩泉からすれば及川は充分生まれ持った“物”を持っている人物だ。身長も、身体能力も、頭だっていい。確かにもっといい才能を持った選手もいるが、それでも及川は持たざる者ではなかった。その上及川は努力を惜しまない。だから代表にだって選ばれたのだ。頑なに返事をしない及川の背中をあやすようにぽんぽん、と叩いて「だろ?」と促すと、控えめに頭が動いて微かに頷いたのがわかった。

「でも今はまず、ケガのリハビリだ」

 こくこく、と無言で頭を上下に振る及川の仕草が幼くて、眠いのかもしれないと思う。このまま寝かしつけてしまおうかとそっと体を倒してベッドに横になると、及川も岩泉にしがみついたまま素直にベッドに横になった。頭を撫でる手は止めない。

「長い人生なんだし、いい選手は浮き沈みあるもんだろ?」

 横向きになって岩泉の身体にしがみつく及川の背中を、鼓動のリズムと同じ速さで優しく叩く。そうするとゆっくりと及川の手から力が抜けてリラックスしていくのがわかった。

「今は雌伏のときだ」

 うんうんと頷く及川は、岩泉に抱きしめられて、岩泉の声だけ聞いて、まるで暗示にかかったように大人しい。言葉の威力は絶大だ。自分は凄い選手だ、と思い込んでモチベーションを上げる。スポーツにおける心理的な力について、岩泉はスポーツ心理学関連の書籍を読み漁ってほとんど独学で身に付けた。スポーツトレーナーになってからは、特にそちらの方面に力を入れて勉強中だった。

「ケガ治してばっちり調整して、前よりもっとスゲー及川徹を見せてやろうぜ」

 及川は返事の代わりに岩泉のTシャツをぎゅうっと握った。自然と力が入ったのだろう。膝の調子が万全になれば、また日本代表チームに召集されることは決まっていた。今は調整を急ぐだけだったが、復帰後の自分がどれだけやれるのかということや周囲の期待など、及川自身もへらへらと笑って見せていても不安なはずだった。その不安を少しでも和らげられたらと、岩泉は思っていた。

「そのために俺がついててやる」

「ずっとだよ」

 顔を上げた及川の真剣な眼差しが、岩泉に突き刺さる。眉をぎゅっと寄せて、口を引き結んだ及川があまりに必死に見えて、つい笑ってしまう。

「当たり前だろ」

 そう言って及川の前髪をかき上げ、あらわれたきれいな形の額にちゅ、と口づける。くすぐったそうに笑った及川は、もういつも通りの笑顔だった。いつだって、二人一緒ならば高みを目指して行けるのだ。岩泉は抱きしめた及川の頭頂部に顔を埋めた。柔らかい髪が鼻や頬をくすぐって、風呂上りのいい香りが鼻腔いっぱいに広がった。及川の匂いだな、と思う。慣れ親しんだ香りに包まれて、今夜は良く眠れそうな気がした。

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