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 時々夢に見る。青葉城西の白と目の覚めるような鮮やかなブルーのユニフォーム。筋肉のしなやかに付いたがっしりとして、でもとてもきれいな大きな背中。背番号1を背負って、まっすぐにコートに立つ。体育館の蛍光灯が明るすぎて、逆光で振り返るあの人の顔がよく見えない。でも声が聞こえる。いつものあの言葉。ドキドキとうるさく鳴っていた心臓が、すっと落ち着いてゆっくりと鼓動を刻み始める。一瞬で変わる空気と一緒に、俺の心から雑念が消え、すぅっと試合の中に引きこまれていく――あぁこれは、及川さんがいた高校最後の公式戦、春高だ。

 

 

 目覚ましが鳴るほんの少し前に目が覚めた。窓の外はまだ薄暗く、暦の上では春でも太陽が昇るのはもう少ししてからだろう。まだ薄暗い内に目覚めて、太陽が出るころにランニングに行く。そして朝練に行って、勉強をして、夜も練習する。猫は相変わらずで、夜は俺と一緒に過ごして、俺が出かけるのと一緒に家を出る。日中は何をしているのかわからない。他にゆっくりできる家があるんだろうと思う。

 外に出ると、少し肌寒い風が頬をすり抜けた。でも、古びたマンションの申し訳程度の庭の木には緑の芽が吹いていて、冬の終わりを告げていたから、俺は去年の今頃のことを思い出す。もうすぐ及川さんと別れて一年が経とうとしていた。

 及川徹という人はある意味天才だった。人を惹きつける不思議な魅力があって、だからバレーの才能があった影山や牛島なんかよりずっと、俺や周りの人間を魅了した。そういう持って生まれた不思議な能力を才能と言って、そういう才能が強い人を天才というのだから、そういう点では及川徹は間違いなく天才だった。中学一年の春、世界の隅っこみたいなあの片田舎の小さな体育館で出会ったその時から、及川さんはずっと俺の世界を支配していた。

 していた、というのは過去形で、だから正確にはちょっと違うかもしれない。俺はまだ彼を忘れられないし、だからきっとまだ少しは彼が俺の世界の一部にいるんだと思う。少し、いや半分とかかもしれないけれど。でもそれは仕方ないことなんだと思う。俺は思春期の大半を彼に委ねてしまったから、だから俺の人格形成に及川徹という人間が大きく関わってしまっていた。未だにバレーをしていることがその証拠かもしれない。

 今俺がバレーを続ける理由は、ただ単にやり始めたことを中途半端にして終わるのは好きではないからだ。昔みたいな情熱は無くても、負けて逃げるみたいに放り出すつもりはなかった。勝っても負けても、最後まで戦って、それで俺の競技バレー人生を終わりにする。そう決めたから、毎日練習を続けている。それでももうがむしゃらな練習はやめた。練習をして、休養を取って、たくさん寝て、ご飯も食べる。そうしたら前よりずっと、バレーは俺にとって楽しいものになった。及川さんがいなくても。

 

 

 休日、昼までの練習を終えて、残って自主練をするチームメイトたちに声をかけ、シャワーを浴びて家に帰る。練習のために学校へ行く時の服装とは違う、少し高かったシンプルだけどラインのきれいなTシャツに着替えて、財布とスマートフォンだけポケットに入れる。

 鏡の前で少し髪を直して、普段の履き古したスポーツシューズではなく、買ったばかりのきれいな靴を履いて玄関を開けた。腕時計を見るとまだ一時過ぎで、これなら待ち合わせよりずっと早く着くな、と思い近くの喫茶店どこだったかなと記憶を辿る。長い冬が終わり、春が来た。まだ肌寒い風が吹くこともあるけれど、陽射しは暖かくて、気分も良かった。

 

「お、国見だ。早いな」

 場所わかるかな、と思いもう一言メッセージを送ろうとした時、横から声をかけられて振り向いた。待ち合わせ時刻より三十分以上早く着いた俺は、駅の中の大きなコーヒーチェーン店の一席に着いていた。

「どうも。部活午前練だったんで」

 花巻さんは一口ちょうだい、と言って何の遠慮も無く俺の持っていたクリームとキャラメルソースのフラペチーノに手を伸ばす。

「おー、バレー頑張ってるか?引退もうすぐだろ」

「そうですね、今年で最後とか、あんま実感湧かないですけど」

 そんなもんだろ、と言って花巻さんは隣の席に腰掛ける。

「お前も頑張ったなぁ、あそこだとバレー部でレギュラー取り続けるの大変だったろ」

「まぁ、そうかもしれませんね」

「淡泊だなぁ」

 他人事のような言い様に、花巻さんは苦笑する。その笑い方の優しさに、俺は少しだけ安堵する。昔からの知り合いというのは、気が置けないし、やっぱり楽だ。

 行くか、と言われて返事をして店を出る。映画の時間までもう少しだった。

「お前もなんだかんだ大学の四年間バレー続けたんだなぁ」

「なんすかそれ」

「いやぁ、お前めんどくさがりだし、そもそも大学まで続けるなんてよっぽどバレー好きな奴でなきゃ無理っしょ。金田一は続けるだろうなぁと思ったけどお前が続けるって聞いたときはびっくりしたよ。及川追っかけってったのには笑ったけど、結局及川いなくなってもやってんだから、やっぱお前根性あるよ。頑固とも言うけど」

 真剣な顔で述べた後、最後の一言を付けたして花巻さんはいたずらっぽく笑った。頑固。なるほど。俺は頑固だったのかもしれない。言われて初めて気が付いた。及川さんがいなくてもバレーを続けたのは、惰性だと思っていたけれど、もしかしたら花巻さんの言う通りかもしれない。

「こんな頑固で可愛げのない後輩、花巻さんもよく相手しますね」

「いやいや、先輩からしたら後輩ってだけである程度可愛いんだって。お前と金田一は特にバレー頑張ってたし個性強いしおもしろかったわ」

「そんなもんですか」

「そんなもん、そんなもん」

 花巻さんはそう言うと、唇の端を引き上げた意地悪な笑みを浮かべて付け足した。映画館のお姉さんにチケットをもらって、赤いじゅうたんの敷かれた廊下を歩く。大きな配給会社とは契約していない、ヨーロッパやアジアの映画を流す小さな映画館には休日でも人は少なかった。映画といえばハリウッド映画、大手チェーンに属する有名な映画館しか知らなかった俺には、最近知った新しい世界だった。

「及川もお前のことかわいいなーって思ってたんだろうな」

「そんなことないでしょ。あの人我儘だったし」

 薄暗い劇場に入って後ろの真ん中の席に座る。背の高い俺たちは邪魔になるから、まぁ快適に観るためのマナーみたいなもん、と初めて一緒に映画に言った時に花巻さんは笑いながらそう言った。

「あいつの我儘は今に始まったことじゃねーじゃん」

「俺のが面倒見てたんですよ。なんか情緒不安定になるし」

「あー、あいつやめる時結構悩んだんか、やっぱ」

「まぁ」

 花巻さんは遠くを見るように目を細めて言った。知らなかったのか、と俺は自分の発言に少し後悔した。及川さんのそういう部分を、及川さん自身が隠したいと思っていたから言わなかったのだろうに、俺が勝手に言ってしまった。

「でもまぁ、お前のがしっかりしてるからな。年下のお前に迷惑かけてただろうけどさ、それでもやっぱ及川も、年下かわいいなーって気持ちあったと思うよ」

 俺の反応から察したのか、それとも聞いてはいけないことだと判断したのか、花巻さんは少し調子を変えて明るくそう言った。

「なんでわかるんですか」

「いやぁ、だってお前かわいいよ?」

「花巻さんバイですか」

 花巻さんが目線だけを俺に向けて笑うので、俺もおかしくなってつられて少し笑う。

「どうだろ、女としか付き合ったことないけど、お前なら抱けるかも」

 悪戯っぽい笑みと、やわらかく細められた瞳には、本気にも冗談にも出来るように本心を隠すズルさがあった。

「俺結構筋肉ありますよ」

「まぁね、でも大事なのは中身でしょ」

「とかいって、直前になってやっぱゴツいから無理とか言うんじゃないんですか」

「えー、信用無いな。まぁ及川の元彼なんか手出したら二度と及川と会えなくなるしやめとこ」

 花巻さんがそう言って冗談っぽく笑うのと同時に、アナウンスが入って劇場のライトが落とされた。だから俺はもうそれ以上何も言わなかった。少し残念な気もして、そういう気持ちになるのは久しぶりだったから、あぁそう言えばこんな感情だったな、と思い出す。誰かに好意を向けられるときの嬉しい気持ち。及川さんとはどうだったろうか。思い出す前に映画が始まったので、思い出せず終いだった。

 映画は中途半端な人生になってしまった女の人の中途半端な生活をとても現実的に描いていた。その映画のラストはラストにはとても思えなくて、だからこそ人生がキリよく終わることなんてないのだと俺は知ったようなことを思った。

 

 四月になると春季リーグが始まる。俺にとっては最後のリーグ戦だ。どんな結果であれ、これが終わればもうバレーはしない。就職も、バレーと関係の無い会社で探している。普通に働いて、普通のサラリーマンになる。スポーツに人生を賭けてきた大半の学生と同じだ。

 就活をしながらバレーもするなんて、と同級生は言うけれど、暇になってもたいしてすることはないんだし、俺はこれでいいと思っていた。

 勝ったり負けたりしながら、五月になった。もう一ヵ月もない。チームはやっと、新しいセッターの戦術とマッチしてきていた。まだ確実な勝利には繋がっていないけれど、試合中に練習通りのいい形で決まることが多くなっていた。いい流れだと思った。

 平日のある日、俺はエントリーした会社の最終面接を終えて駅のすぐ傍の喫茶店に入った。スーツを着ているだけでいつも何倍も疲れる気がした。息苦しくて、俺はネクタイを緩めてシャツのボタンの一番上を開ける。そしてふと顔を上げた時、目の前に及川さんがいた。及川さんも俺を見て、飲み物とサンドイッチの乗ったトレーを持ったまま固まっていた。及川さんだ。全然変わってないな。でもスーツがよく似合ってる。そうかもう別れて一年経つのか。それは一瞬のことだったんだろうけれど、俺には数分か、それ以上に感じられる邂逅だった。

 及川さんがぎこちない動きで一歩を踏み出して、そのままふらふらと俺の前の席に座った。それでもまだなんて言えばいいかわからなくて、俺と及川さんは見つめ合っていた。茶色の柔らかそうな髪も、アーモンド型の色素の薄い瞳も、つんと尖ったきれいな形の鼻も、久しぶりに見るのにそんな気がしなくて、あぁあの猫に似てるんだ、と思い出す。

「国見ちゃん」

「及川さん」

 俺は久しぶりですね、と変わらないですね、とどちらを言おうか迷ってどちらも言えずに口を開けて、また閉じた。及川さんも何か言おうとして口を開いて、それから悲しそうに目を伏せた。そういう仕草をされるのは嫌いだった。

「スーツ」

 及川さんは下を向いたままそう言った。その小さな声に、俺は一瞬何を言ったのかわからなくて聞き返す。

「スーツ、着てるんだね。就活してるんだ」

「まぁ、そうですね……」

「及川さんは」

「俺は外回りして、今お昼食べようと思って」

 時刻は二時を過ぎたところで、お昼には少し遅い時間だった。仕事が忙しいのだろう。

「バレーやめるの」

 ストローの袋を開けながら、及川さんはこちらを見ずにそう言った。なんでもないことみたいに言おうとして、失敗しているのが及川さんらしいような気もした。

「春季リーグ終わったら、やめます」

 及川さんはそれには何も答えずに、顔を上げて無理矢理笑顔を浮かべて矢継ぎ早に言った。

「国見ちゃんが元気そうでよかった! めんどくさがりで全然自炊しないからさ、ご飯ちゃんと食べてなかったらどうしようかと思ったけど、痩せてないし、むしろまたちょっと大きくなった? それになんかアレだね、久しぶりだから雰囲気変わった? かっこよくなってるね、うん! 国見ちゃんはかっこいいし、でも中身はすごくかわいいし、及川さんいなくても大丈夫だねやっぱり。よかった、ほんと。よかった。元気そうで……。なんか、久しぶりだから、何話していいかわかんないね……」

 ほとんど一息に意味の無い言葉を重ねて、でも最後のほうはどんどん消え入りそうな声だった。俺はそれが及川さんの強がりだと思ったけど、どうしてそんなに強がっているのかわからなくて、ただ目を細めて黙って聞いていた。及川さんの取り繕うような笑顔も、空元気も、無意味な強がりも、全部見ていられないくらい痛々しくて、悲しくて、哀れだった。

「及川さん、俺」

「そうだ、国見ちゃん、あの」

「及川さん」

 俺は少し大きな声で及川さんの言葉を遮る。もう下らない話は聞きたくなかった。

「俺、及川さんがいなくても、もう大丈夫です」

 弾かれたように顔を上げた及川さんの、アーモンド型の瞳が衝撃に揺らぐ。それから消え入りそうな声で、「そう、そっか」と独り言みたいに呟く。俺はその声を無視して言葉を続ける。

「及川さん、俺は及川さんがいなくても生きていけます。及川さんも俺がいなくても大丈夫でしょ。それと一緒で、俺はバレーがなくなっても生きていけます。だから、俺はバレーをやめるけど、そのことで別に、及川さんがそんな顔することないです」

 ゆっくりと、子どもに言い聞かせるように、出来るだけ優しい声でそう言った。

「そんな顔って……?」

 俺の言った言葉の意味なんて少しも理解できないとでも言うように、顏を歪めて、大きな瞳に涙を湛えて、今にも泣き出しそうな顔をして及川さんは小さく呟いた。俺は小さい子どもにするように、身を乗り出して及川さんの涙を指で拭った。それは、どう見たって真昼の喫茶店で男が男にする行為ではなかったけれど、そんなことはどうでもよかった。ただこの人の涙を止めたかった。

「泣きそうな顔」

「してないよ……」

 及川さんは力なく首を振った。

「及川さん、俺、来週末に最後の試合があります。見に来て下さい、俺の最後の試合」

 及川さんは俯いてまた首を振った。

「行けないよ……」

「それでも来て下さい」

「行きたくない」

「絶対来て下さい」

「行きたくない」

「来て下さい」

「嫌だって言ってるだろ!」

 意地になって言い募る俺に、及川さんが声を荒げる。それは平日の喫茶店に響いて、一瞬だけ時が止まる。

「ごめん」

 及川さんは周りを気にするように少し黙ったあと、小さな声で呟いた。

「及川さん、来て下さい。俺はバレーが終わっても、大丈夫だから」

「そんなことない」

 苦しそうな声だった。

「だって、国見ちゃん、俺がバレーやめるって言ったら悲しそうな顔したでしょ。泣きそうな顔して、苦しそうに俺のこと慰めてた。つらいのに、我慢してた……」

 絞り出すような告白に、俺はあの日を思い出す。遅くに帰ってきて、玄関先に立ったまま就職が決まったと言った及川さんの姿。茫然と立ち尽くす彼に、おかえりなさいと言った。そして呪詛のような言葉を繰り返して泣いている彼を、俺は抱きしめて、慰めた。夜風が吹き込んで、向かいのビルのオレンジの常夜灯が歪んで見えた。そうか、俺はそんな顔をしてたのか。自分の記憶の中に及川さんの言葉が入り込んで、見えるはずもないのにあの日の自分のつらそうな顔が浮かび上がる。あの時俺が泣きそうな顔をしていたから、だから俺がバレーをやめるのを、及川さんがつらそうにするのか。

「……忘れてました」

「ズルいよ……俺はずっと覚えてたのに……」

 ずっと覚えてた。そうか、及川さんがバレーをやめることを世界の終りみたいに俺が悲しんだから、だからこの人はつらかったのか。だから俺と一緒にいられなくなったのか。

「及川さん、やっぱり試合見に来て下さい。俺、ほんとにもうバレーなくても大丈夫なんです」

 及川さんは諦めたように溜め息を吐く。

「国見ちゃんはいっつも強情だから……」

 及川さんは泣きそうな顔で笑ってそう言った。

 

 

 ピー、と長く笛が鳴って、試合終了を告げる。コートの上で、ボールがとんとん、と弾んで、弾性力を失くしてころころと音も無く転がる。膝を付いたままその動きを呆然と見つめていたけれど、すぐに我に返って、上を見上げる。体育館の明るすぎる照明が目に入ってチカチカと光った。審判の声に、立ち上がってチームメイトと共に整列をする。汗ばんだ手で握手を交わして、いつもと変わらない形で試合が終わった。そのまま振り返って観客席にも頭を下げる。応援に来ていた人たちが口々に労いの言葉をかけて、拍手をしていた。俺は深呼吸をして、観客席を仰ぎ見る。その中の一番遠く、目当ての人の姿を見つけて俺は目を細めた。

 最後だと言われても、正直あまり実感はなかった。及川さんが抜けてからだいぶ時間は経ってしまったが、それでもやっと後輩セッターによってチームが機能し始めていた。今季は悪くなかった。俺たちが抜けても、力を落とさずにいれたら上がっていくことも出来るだろうと思う。感慨深いかと聞かれたら、たぶんそうだろう。でも今すぐ涙が出るかと言われたら答えはノーだ。たぶんこういうのは、ゆっくり日常生活の中で引退を実感して行くんだと思う。きっと寂しくなるだろう。もう何年もずっと、俺はバレーと生きて来たから。でも終わりは新しい始まりだから。何かを始めて行くチャンスなんだと思う。いつもより少し長いミーティングを終えて、最後の試合を観戦してくれていたOBの方々も短いコメントを述べた。その中に及川さんはいなかった。

 会場になっていた大学はもう慣れたもので、道に迷うこともないけれど、でもやはり他大学に長居するのは良くないので、最後の挨拶や次期主将などの話はまた次の練習の時にということになり、解散になった。チームメイトに断って、俺は体育館のすぐ近くの小さな池に向かった。この池は食堂のすぐ裏側にあって、テラス席が数席設けられている。食堂に人がいっぱいの日はその席も使われるのだろうが、休日は人が少なく誰もいないことが多い。俺はそこでよく、及川さんと二人で試合の反省会をした。ミーティングでは言えないチームや監督への愚痴、対戦チームへの主観交じりの評価を口々に言い合って、そしてなぜか今日の夕飯をどうするかという話になって、最後に俺が眠いから帰りたいと言って、及川さんが笑うのだった。池のそばの低い生垣まで来ると、テラスの下で長い足を伸ばして座る長身が見えた。俺は無意識に「やっぱり」と声に出していた。及川さんが振り向いて、少し笑う。

「お疲れ、国見ちゃん」

 隣に腰かけて大きなエナメルバッグを地面に置いて、大きな溜め息を一つ吐く。疲れた。全力を出し切って終わった。

「及川さん、俺」

「うん」

「最後の試合、負けたけど、楽しかったです」

「うん」

「それにチームは今季もリーグ残留です」

「うん」

「俺、今のチーム、結構好きでした」

「そんな感じ、した」

 そう言って及川さんは優しく笑った。俺を労わるような、慰めるような笑顔だった。

「及川さんがセッターの時のチームも好きでしたけど」

「うん、そうだろうね」

 自分で言って、及川さんが笑う。

「でも及川さんがセッターなら、やっぱり青城の時が一番好きでした」

「うん、俺もあのチーム好き」

 及川さんは長い手足をぐーっと伸ばして、随分待ったよ、と言った。

「でも、もう、バレーじゃなくても、いいと思うんです」

「うん、そんな顔してる」

 及川さんはあっけらかんとした口調で俺の言葉を肯定した。もっと否定されるかと思っていた。

「いい試合だったし、国見ちゃんもすごくよかった。試合見てたら、全部わかった」

 及川さんが笑ってそう言うから、やっぱりバレーで繋がっていたから、バレーの方が伝わるのだな、と俺は自分のことながら妙に感心した。

「もうバレーじゃなくてもいいんです」

 及川さんも、そうだったんですか。あの時、そういう気持ちだったんですか。バレーにこだわっていたのは、俺の方だったんですか。

「だから、バレーがなくても、俺は及川さんのこと、好きだと思うんです」

「うん、そうだと思った」

 五月の最後、強くなり出した日差しをパラソルの影で避けて、俺と及川さんは久しぶりに二人で色々な話をした。日陰にいるとまだ涼しい風が時折吹き抜けて、俺と及川さんの髪を揺らした。

「そうだ、及川さん。映画に行きませんか」

 

 

 俺はその日、家に帰らなかった。新しい同居人の猫のことは、朝になるまでずっと忘れていた。誰かと寝るのは久しぶりだったけれど、俺はいつも猫と眠っていたから、夢の中では及川さんじゃなくて猫と眠る夢を見た。

「あ、ねこ」

「なに?」

 とっくに起きていた及川さんが、振り返って俺を見る。テーブルの上には湯気の立つカップが二つ置かれていて、コーヒーのいい香りが鼻腔をくすぐった。見慣れないベッドに、見慣れないテーブルとカップ、それに見慣れないTシャツとパンツを穿いている。及川さんの部屋だった。

「何、寝ぼけてるの国見ちゃん」

 Tシャツにボクサーパンツを穿いただけの格好で、及川さんはカップからドリップパックを取り出す。そう言えば家ではいつもこうだった。宅急便来たらどうするんですか、と言っても、国見ちゃん出てよ、と言って笑うだけだった。

「いえ、家に猫がいて」

「あぁ、前に言ってた。じゃあお腹空かしてるね、早く帰ってあげないと」

「いえ、でも家にいるんじゃないんで」

 昨日もずっと俺の部屋の前にいたのだろうか。それとも裏の窓のところだろうか。俺がいない間、どこか別の家で寝床を見つけられただろうか。付かず離れずの関係を貫いてきたけれど、いざこうなってみると心配になった。

 家に帰ってみても、案の定玄関に猫はいなかった。

「猫ちゃーん」

 及川さんが近所迷惑にならない程度の声で呼びかける。でも俺は猫に名前を付けたことはなかったし、猫も自分を猫だとは認識していないだろうから呼んでも無駄だろう。

「どこか他の家にいるのかもしれないです」

「そうなの?」

 玄関のドアを開けて、及川さんを招き入れる。

「あ、裏庭あるんだね」

 一階の特権、小さな裏庭。猫はよくここからも入って来ていた。窓を開けて外を見る。

「いる? 猫ちゃん」

 俺の隣から顔を出して及川さんが外を眺める。

「いえ、あ……」

 誰かの声が聞こえて、俺が黙るのと同時に及川さんにも聞こえたようだった。女の子の声だ。

「あんどろめだぁー!」

 そしてガサガサと生垣を抜ける音がして、茶色い塊が飛び出して来た。

「あ、猫!」

 猫はにゃあんと可愛らしく鳴いて、俺の足元で甘えた声を出す。

「わぁ、かわいいねぇ、すごい懐いてる」

 及川さんがそう言ったのとほぼ同時に、ガサガサと音がして今度は生垣から女の子が這い出て来た。

「あ、アンドロメダ!」

 猫は女の子の呼びかけに答えるように、にゃあんと鳴いて振り返る。

「あ、あの……」

「あ、君の猫?」

 猫を撫でながら尋ねる。女の子は俺たちを見て慌てて手を後ろに隠したけど、その手の中に赤い首輪があったのを俺は見逃さなかった。

「あ、ちがうの。でも、私の猫になってほしい……」

「アンドロメダ?」

 及川さんが人好きのする優しい笑みを浮かべて女の子を見る。

「うん! その子の名前!」

 アンドロメダ。銀河の名前だったかな、と俺は曖昧な記憶を辿る。この茶色の猫に銀河の名前がどう関係するのだろうか。

「なんでアンドロメダ?」

「だって、きれいだから!」

「きれいだから?」

「うん、星も猫もきれい! それにアンドロメダって名前かわいいでしょ?」

「たしかに」

 及川さんは笑って頷いた。俺はごろごろと喉を鳴らして足元に寝転がる猫を見ながら、

「お前アンドロメダになるか?」

と、尋ねる。猫は答えるように一際高い声でにゃあと鳴いた。

 狭い1DKのアパートは、背の高い男二人が入ると途端に窮屈に感じる。小さな一人用のローテーブルに不揃いなカップを二つ出して、パックのお茶を入れる。

「猫ちゃん、よかったの?」

 俺は猫を女の子に渡して、猫はアンドロメダという名前になった。これからは色々な場所を転々とせずに、あの子の家でずっと暮らす。主人はあの子だけで、あの子に愛されて、アンドロメダもあの子を全力で愛する。

「猫もきっと、ちゃんとした家がいる頃だったと思います」

「そっか。もう色々経験して落ち着く年頃かぁ」

 及川さんは自分で言っておかしそうに笑った。そしてカップに入れたお茶を飲みほして、

「ねぇこのカップ飲みにくいよ」

 と、いたずらっぽく笑った。

「誰かが来ると思ってなかったんで俺用のカップしかないんです」

「ふぅん」

 そう言って及川さんは狭い部屋をぐるっと見回す。釣られて俺もぐるりと見回す。何もない部屋だと思う。といっても卒業すればまた引っ越すだろうしとあえてそうしていた。荷物になる物は置かないし、買わなかった。

「これなら引越し楽そうだね」

「まぁ」

「就職決まったらさぁ、お祝いしようね」

 及川さんは空になったカップを見つめたまま言った。俺はそうですね、と言って所在なさげに揺れている及川さんの右手を俺の左手で握りしめた。

 俺の同居人だった猫は出て行った。茶色くて柔らかい毛、髪と同じ茶色い瞳、つんと尖った鼻、甘える仕草、一緒に眠る温かい体温。猫は及川さんの代わりにやってきて、及川さんが帰ってくるといなくなった。猫は新しいちゃんとした家族を見つけて、そこできっとたくさん愛されて、時に窮屈に感じることもあるだろうけれど、根なし草だった頃よりずっと愛されて、愛して、幸せに暮らすだろう。その方がいいと思った。

 俺は茶色の柔らかい髪に指を通して、その猫のような柔らかい毛の感触を楽しむ。

「及川さんの髪、猫みたい」

「なにそれ、猫みたいなのは国見ちゃんだよ~」

 そう言って及川さんは俺の顎をこしょこしょと撫でる。

「そういう意味じゃなくて、あの猫みたいなんです」

「あの猫って、アンドロメダ?」

 そう、猫みたい。俺は及川さんに覆いかぶさって、耳元で囁く。柔らかい毛に頬ずりして、少しでも隙間を埋めるようにより一層力強く抱きしめる。素肌の触れ合うぬくもりが、あの猫を思い出させた。こうやって、夜になると寂しさを紛らわすように猫を抱きしめた。

「寂しかった」

 息を吐くように囁いた声に、及川さんの俺を抱きしめる腕が強くなった。ぎゅうっと抱き合ったまま、俺は及川さんの心臓の音を聞いていた。バレーをやめても、及川さんは生きている。俺もそうやって、生きていく。

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