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 猫は人に付かない、家に付くって言うもんね。

 人の少ない朝の喫茶店で、及川さんはどこを見るでもなく窓の外を見つめながらそう言った。きっと俺と目を合わせて話すことが気まずいのだろう。

 通い慣れたこの小さな喫茶店は、二人で住んでいたマンションのすぐ目の前にあって、朝だろうが昼だろうが休日だろうがほとんどいつも客はいなかった。だからよく二人して休日の朝から窓際の角の席を陣取って、珈琲一杯をお供に課題のレポートに取り組んだ。持ち込んだノートパソコンに文字を打ち込みながら、マクロ経済がどう俺のバレーに関係するのとか、情報処理なら試験にしろよとか、愚痴を言い合ったものだった。

「そうだ。お金、いくらだった?」

 及川さんは窓の外を見つめたままなんでもないことのようにそう言った。でもその言葉は特別な意味を含んでいて、だから少なくとも俺にとってはなんでもないことではなかった。

「別にそんなのいいです。俺の引っ越しだし」

 俺は思ってもいないことを口先だけで述べて、心の中で舌を出した。お前のせいだよ、無駄にお金がかかったんだ。及川さんさえ俺のことを好きでいたら、こんなことにはならなかったのに。どうしてこんな我儘言うんだろう。そんなにバレーが出来なくてつらいなら、下部リーグに所属するチームのある会社でも行けばよかったんだ。声だってかかっていたのに。一流でなきゃバレーをしちゃいけないなら、あんたより才能も能力もない俺は、どうして今もバレーをしてるんだ。

「ダメだよ。国見ちゃん部活あるからバイトしてないでしょ。俺のせいでもあるんだし」

 あんたのせいでしかないよ。俺はそう吐き捨ててしまいたかった。あんたのその変なコンプレックスも、バレーをやめた今では何の役にも立たないちゃちなプライドも、全部捨ててしまえば俺とあのまま二人でずっと一緒にいられたのに。馬鹿なのかな、この人。馬鹿なんだろうな、きっと。

「でも、荷物運ぶのは岩泉さんに手伝ってもらったんでそんなお金かかってません。最低限の家電くらいで」

「そっか。岩ちゃんおじいちゃんから車譲ってもらったんだもんね。羨ましいなぁー。こっちで車持ってるとか、きっとすぐ彼女できちゃうね」

 知ってた癖に。あんたが岩泉さんに連絡して俺の引っ越し手伝うように言ったんだ。あんたにフラれて部屋を出ていくことになった可哀想な俺を慰めてやってくれなんて、いくら親友でも頼まれる岩泉さんの気持ちを考えたほうがいい。それに恋人にフラれた人がみんな、誰かに慰めてもらいたがってるわけじゃない。俺は誰にも言わずに、ゆっくり自分の中で消化させればいいと思ってたのに。この人は頭が良い癖に時々こんな風に無神経で短絡的で、想像力が貧困だ。

「及川さん、鍵」

 何も会話がなくなって、もうどうしたって一緒にこの席に座っている理由なんてなくなったから、俺はポケットで存在を主張していた簡素な金属の塊をテーブルの上に置いた。小さくて軽い塊が、テーブルの上の落とされてかちゃんと音を立てた。これがなくなったら、本格的に俺と及川さんの関係は終わるんだろう。

 二年前の春、俺が及川さんと同じ大学の門をくぐったのは、ただ単に俺のバレーを彼の下で実らせたかったからだった。純粋な憧れだったと思う。憧れは愛ととても似ているし、だから俺が及川さんを好きになったのは別にそんなにおかしなことじゃなかったと思う。女の子としか付き合ったことはなかったけど、別に好きな相手がたまたま男だったからって、そんなことは俺にとって大きな問題でもなかった。でも及川さんが俺のことを好きになったのは、それは大きな間違いだし、及川さんの“好き”はもしかしたら俺の中にあるような“好き”ではなかったのかもしれない。バレーが好きで、でも大っ嫌いで、時が経てば経つほど目の前に立ちはだかる厳しい現実に、虚しくて悲しくて耐えられなかっただけだったんだろう。その時に傍にいて手を差し伸べたのが、たまたま俺だったから、及川さんは都合のいい支えとして俺を利用した。そして支えである俺が役目を果たせずに、及川さんがバレーを続けることができなくなってしまったから、だから利用価値の無い俺は及川さんの就職を目前にしてあえなく捨てられることとなってしまったのだ。

 バレーをしてる国見ちゃんが妬ましい。時間が進まなければいいのに。俺もずっとバレーだけしていられたら。どうして仕事しなきゃ生きていけないんだろう。俺はバレーしかしたくないよ、国見ちゃん。俺の前でバレーしないで。

 胸が痛くなるほど悲痛な叫びだった。開けっ放しの窓から夜風が吹き込んで、カーテンがはたはたとなびく音以外には、及川さんの出す苦しげな呼吸音しか響いてこない静かな夜だった。隙間から見える狭い空は、星なんて一つも見えなくて、ただただ向かいのビルの常夜灯が鈍くオレンジに光って、水の膜が張った瞳には歪んでゆらゆら揺れて見えた。俺は縋りついて嗚咽を漏らす及川さんの背中に腕を回しながら、二年後同じようにバレーをやめる時、俺はこんな風に泣けはしないのだろう、と自分がとうにバレーにかける情熱を失ってしまっていることに気付いたのだった。

 及川さんは気付いていなかったけれど、彼が大学のバレー部を引退したその時に、俺のバレーも終わってしまっていたのだった。及川さんのいないバレーの世界で、それでも一縷の望みに縋って、俺は残りの二年間を虚しく過ごすのだろう。いつか何かが変わるかもしれない。ここにいればまた及川さんが俺に会いたいと思った時に見つけてもらえるかもしれない。及川さんよりとっくの昔にバレーの神様に見捨てられていた俺は、俺を捨てた神様へ尽くすことをやめて、いつの間にか好きな人との繋がりとしてバレーをするようになっていた。俺にとっては、及川さんが新しい神様だった。

「ありがとう、ほんとに、今まで」

 テーブルのちょうど真ん中、二人の間に置かれた鍵は、どちらの所有物でもなかったのに、手を伸ばして及川さんが拾い上げたその時から、彼の私物になってしまった。もう二度と、俺の手には戻ってこない。

「じゃ、俺行くんで」

 ポケットから財布を取り出そうとした俺を及川さんは手だけで制して、俺が出すよと力なく笑った。眉が下がって、目尻が普段より優しそうな形に弧を描く。悪いことをした時や、俺を怒らせてしまったと思ってご機嫌を取ろうとする時、気まずい時や居た堪れない時、及川さんはいつもこうして笑う。こんな顔をする及川さんのことは大嫌いだったし、自分勝手に俺を捨ててしまう及川さんのことも大嫌いだったから、俺はお金くらい出させればいいと思って、お礼を言って席を立った。

「元気でね」

「及川さんも」

 カランコロン、と馬鹿みたいな音を立てて馴染みの店の扉が閉まった。ここにはもう二度と来ることはないだろう。

外はいい天気で、風が冷たいことを除けば過ごしやすい冬の日だった。新しく暮らし出した1DKのボロいアパートはここから遠く、電車を乗り継がなければならない。まだ生活感の無い一人ぼっちの部屋は、休日の午前中に帰ったって何も楽しいことなどなかった。けれど俺は、久しぶりのオフに出かけておいて、どこにも寄り道せずにまっすぐに家路を辿る。

 自棄になって安さと通学の利便性だけで選んだボロいアパートは、一階には庭があって、そこには一匹の綺麗な猫がやってくる。首輪こそしていないが、毛並みもきれいだし人馴れもしているから、きっと近所の人が飼っている猫なのだろう。その猫は窓を開けていると勝手に入ってきて、俺の隣に座って毛づくろいをしたり顔を洗ったり、時には昔からの知り合いかのように危機感も無く眠ったりする。薄茶色の柔らかい毛並みは誰かを彷彿とさせて、どうしようも無く悲しかった俺に泣くための居場所をくれた。だから俺は新しい家が嫌いではない。猫は気まぐれにやってきて、気付いたらどこかへ行ってしまうけれど、誰かと暮らすなら今度はこのくらいドライな方が離れた時に悲しまなくて済むから、俺はこの関係がとても気に入っていた。

 喫茶店で久しぶりに会った及川さんを見て、俺は何を話せばいいかわからなくて咄嗟に猫の話をした。

 新しい家には猫が来ます。前の住人に懐いてたんですかね。

 俺の唐突な言葉に、及川さんは目を細めてそう、と言ってどこかで聞いたことがあるような猫に関する通説を口にした。どんな猫なの、と本当は興味も無い癖に律儀に会話を続ける彼に、俺は半ば苛立ちを覚えながらもそれを堪えるために口をきゅっと引き結んだ。

 茶色の柔らかい毛、丸いアーモンド型の茶色の瞳、すぐ身だしなみを気にするところ、俺の隣で眠る体温。俺は新しい同居人の猫を頭の中で思い描いた。

「及川さんみたいな猫です」

 俺は喉まで出かかった言葉を飲み込んで「よくいる猫です」と答えた。

 

 春を目前にして、冬の風が最後の踏ん張りだと言わんばかりに冷たく吹き抜けた。マフラーに埋めた顔の半分が吐く息の温かさで湿っていた。ポケットに突っ込んだ手は充分に温まっていたけれど、なんとなく出しそびれてそのままだった。俺はバレーよりも及川さんが好きで、だから及川さんのためにバレーをやめてもよかった。でもそれを言うと、及川さんがもっと泣き出すような気がして、そしたらきっと取り返しがつかないほどに嫌われてしまうだろうから、結局俺はバレーを取ることになってしまった。

 バレーだけを愛して、バレーだけにその身を捧げた及川さんにとって、それを失った第二の人生はきっと空虚で侘しく、少しも現実感の無い世界だろう。及川さんを失った俺の世界も、及川さんの世界と同じように色を失って枯れてしまった。コンクリートの地面を踏みしめる硬い感触だけが、空虚な世界を現実たらしめていた。

 

 

 翌日は雨だった。翌々日も雨だった。三日目になってやっと晴れた。及川さんの代わりに一緒に暮らし始めた猫は、雨の間ずっと俺の家にいて、晴れるとどこかへ行ってしまった。俺は毎日学校に行って、朝練をして、授業を少しだけ受けて、それ以外はやっぱり部活をした。二限と四限の授業の合間に筋トレをしたり、夕方は試合形式の練習をしたり、夜遅くまで自主練して帰りにチームメイトとラーメンを食べたりした。そしてその合間、一人になるとどうしよもなく寂しくなって声も出さずに静かに泣いた。そしてすぐに泣き止んで、もうどうにもならない現実に息が詰まるような心地がした。

 新しい同居人の猫は勝手で、だから俺も勝手に過ごした。猫の世話はほとんどしなかった。及川さんと暮らしていた時、俺は及川さんのために自分を犠牲にして色々なことをしたけれど、でも及川さんはあっさり俺を捨てて行った。だから俺はもう同居人の世話は気が向いた時に無理の無い程度にしかしないことに決めた。猫も特に俺の為に何かしたりしなかった。お互いに干渉せず、時間が合う時だけ寄り添って過ごした。それでも、家にいると寂しくて寂しくて今にも及川さんの暮らすマンションまで駆けて行きたいという衝動に駆られる時のある俺にとって、猫が傍にいてくれることはとても幸せなことだった。そういう意味で、俺と猫はいい関係で新生活をスタートさせたのだった。

 猫はもしかしたら、俺と同じで干渉しないけど寂しさを共有できる同居人を探して世間を渡り歩いていたのかもしれない。いつの間にか猫は夜になると俺の家に帰ってきて、朝俺が学校に出かけるのと同時にどこかへ行くようになった。俺と生活スタイルを合わせているような行動が動物の癖におかしくて笑った。なんでもないことに一人で笑ったのは久しぶりだった。

 及川さんと別れた日はまだ冷たい風の残り香が漂っていたが、季節は廻ってもうすぐ短い春が終わろうとしていた。五月のある日、岩泉さんから連絡が来て、俺は社会人になった岩泉さんと夕飯を共にすることになった。

「国見、急に連絡して悪かったな」

「いえ、嬉しいです。お仕事どうですか」

「まぁ、学生の頃に比べたら疲れるなぁ。研修終わったばっかでまだ全然慣れねーし」

「大変なんですね」

 岩泉さんは眉を下げて笑った。ほんの数か月前までこの人も俺と同じようにユニフォームを着ていたのに、今はもう皺の無い真っ白のシャツと黒いスーツがよく似合っていた。俺もあと二年でこうなるのだろう。バレーに未練はなかった。及川さんはどうだろうか。あの人なら何を着たって似合うのだろうけど、コートの中にいるあの人をずっと見てきた俺にとって、スーツを着た及川さんに違和感を抱かないことはあるのだろうか。

「お前も、元気そうでよかった」

 岩泉さんはぐいっと威勢よく煽ったビールの残りを覗き込みながらそう言った。急に泡の状態でも気になり出したかのように、俺の方は一切見ないで続けた。

「及川と別れて、お前結構落ち込んでるように見えたから心配してたんだ。だめになったらどうしようかと思って。でも案外元気そうだし、よかったよ」

 あぁ、そうか。この人は及川さんに言われて来たんだな、と俺はすぐに気付いた。お人好しな及川さんと岩泉さんの考えそうなことだ。岩泉さんは昔から、及川さんに比べて嘘の下手な人だった。正直で、まっすぐで、自分にも他人にも厳しくて、でもとても温かい人だった。そしてバレーと及川さんをとても大事にしていた。バレーを失った今、この人にとって大切なものは及川さんだけになったから、だからこうして及川さんに言われた通り俺の様子を窺いに来ているんだな、と思った。急に全てが馬鹿らしく思えた。いい後輩のフリも、元気なフリも、どうして俺だけが苦しいのを我慢しなければいけないのかと思うと頭にカッと血が昇った。

「元気じゃないです。眠れないし、泣いてばっかだし、テレビ見ても楽しくないし、何もしたくない。義務みたいに毎朝起きて学校に行ってバレーして寝て起きての繰り返しだけです。バレーだって本当は、俺は」

「国見!」

 一瞬だけ呆気にとられて固まっていた岩泉さんは、それでもすぐに身を乗り出して俺の肩を掴んだ。俺はその手を高校時代ならあり得ないほどの乱暴さで振り払った。そしたらまたどうしようもない悲しみの波が急に寄せてきて、俺は自分があの頃と全く違った存在になったことを自覚した。ただ楽しくバレーをして、及川さんが主将で岩泉さんが副主将で、先輩たちがいて、金田一が一緒に一年レギュラーとして頑張っていて、それで全国にだって行けると疑わなかった頃の自分たちの関係はもう全部なくなってしまっていた。時間はゆっくりと、でも着実に俺たちを動かして行っていた。全部作り変えられて初めて、俺はその事実に気付いた。

「国見、大丈夫だから」

 俺は及川さんを好きになってしまって、そのせいで全部失った。楽しかったバレーも、高校時代のチームメイトとしての関係も。俺が行動して、少しずつ変えてしまっていた。

「俺はもう、バレーだってどうでもいいのに……及川さんが俺の代わりにバレーしたらいいのに。そうしたら全部、うまくいくじゃないですか。そうしたら別に、別れなくってもよかったんでしょう?」

 数カ月前の痛みを、俺の心はちゃんと覚えていて、いつまでもたった今傷付けられたかのように正確に同じ痛みを再現する。心なんて体のどこにあるのかもわからない部位が、それでも確実に痛みを訴えていた。寂しいとか悲しいとかを感じる器官は、レントゲンには映らないし、解剖図にも載っていないし、理科室の人体模型にも付いていない。でも俺は心が痛くて、それだけで死んでしまえそうだった。現代の医療では治せない、不治の病はきっとこれだろう。

「国見、大丈夫だから」

 壊れたラジオのようにそう繰り返す岩泉さんのことを、俺の中の冷静な部分が笑っていた。大丈夫なことなんて何一つ無いのに、でもそう言うことしかできないくらい、傍から見たら俺は精神不安定の危ない奴なのだろう。後から後から寄せて来る大波のような寂しさが体の中から俺を蝕んで、俺は涙と鼻水を垂らして泣いた。バレーなんかどうだっていいから、及川さんの傍にいたかったのに、中学と高校と大学の部活の先輩という腐れ縁のような関係の人と、俺はもう連絡すら取り合えない関係になってしまっていた。俺も岩泉さんみたいに、ただの友人として傍にいれば、最も特別な存在にはなれなくても、特別な友人として一緒に過ごして行けたのかもしれない。でもそれももう、後の祭りだった。

 

 

 浅い眠りを繰り返しても、夜は明けるし日々は着実に過ぎて行った。及川さんがいなくなったバレー部で、俺はベンチ入りからレギュラーに昇格して、好不調に関わらずいつも同じような成果を上げた。及川さんの跡を継いだ新主将もチームメイトも、誰も俺がバレーへの情熱を失って惰性で生きていることに気付かなかったから、俺はもしかしたら完全に機械に成り果ててしまったのかもしれないなどと、深夜のB級SF映画を見ながら途方もないことを考えた。俺は心の内にどれだけの波が立とうとも、傍目には全く同じ生活を続けられる器用な人間だったらしい。俺のいるチームは、去年、及川さんがいた頃より順位を下げて春季リーグを終えた。俺には特段の感慨も無かった。

 猫は夜を俺の家で過ごす。だから深夜のSF映画も一緒に観れるし、たまに汚い時は嫌がる猫を引っ掴んで風呂に入れてから一緒にベッドで寝たりした。柔らかい毛並みによく頬ずりをしては、セックスの後に及川さん髪に顔を埋めた時の感触を思いだした。柔らかい毛皮の下のふくよかな丸みは規則正しく上下して、小さな体全体で呼吸をしているようだった。

 三年生になった俺は、もうそろそろ就職活動も始めなければいけなくて、だから授業と部活の間に学校主催の就活セミナーに出るようになった。

その日は午後から雨で、俺は今朝外に出かけて行った猫がどこかで濡れていないかということが頭の片隅でちらついていた。大教室の後ろの左端に座って、知ってるようで知らなかった就活の知恵や知識をメモを取るでもなく漫然と聞いていると、蛍光灯の白すぎる光で目がチカチカして、意識はどんどん現実から遠ざかった。

 一年前、及川さんは家に帰ってくると、俺に就職が決まったことを告げた。なんとなく聞いたことがあるようなないようなその会社が、声のかかっていたVリーグ二部所属チームを持つ会社ではないことだけは俺にもしっかりとわかった。あぁこの人は本当にバレーをやめてしまうんだな。そう思うと俺の口からおめでとうございますという言葉は出てこなかったし、及川さんがそんな陳腐で何の意味も無い言葉を求めているわけではないことは俺にもわかった。けれど、じゃあ何と言えばよかったんだろう。バレーを続けて下さい?俺もバレーやめます?俺と一緒に死んでください?俺が殺してあげましょうか?

 どの選択肢も、及川さんの悩みの解決にはならないことは明白だった。この世にバレーが存在しないか、それとも過去にさかのぼって及川さんがバレーをしないか。そのどちらかしか、及川さんを救う方法はないように思われた。

 だから俺は目を細めて、おかえりなさいと言った。玄関で靴も脱がずに呆然と立っていた及川さんは、俺の言葉にやっとのろのろと靴を脱いだ。俺は悲しくて、ただただ及川さんを抱きしめた。及川さんは俺に縋って呪詛のような言葉を吐き続けた。及川さんのバレーへの思いは、もはや重くなりすぎて俺の手には負えなかった。元から俺なんかがどうにかできることではなかったのかもしれないとその時やっと俺の思考はそこに思い至った。

 

 夜になると及川さんと過ごした日々の記憶がぐるぐると頭の中に甦って、その度に俺はあの時ああしていれば、もっと別の言葉を言っていれば、と何度も何度も想像の中で二人の関係をやり直した。でも小さなほころびをいくつ直したって、俺は及川さんと一緒にはいられない運命だったのだ、といつもそこに行きついて、涙が頬を伝って、暗闇に慣れた目が天井の模様を捉えるだけだった。そうして浅い眠りについて、朝が来ると、俺はだるい身体を引きずって朝練に向かう。強制されてもいないのに、及川さんがいた頃のように一限が始まる前に練習して、そして授業を受けて、授業の無い時間も練習した。それはまるでバレーが大好きな奴みたいに見えるだろう。ただ単に、俺はバレー以外のことを知らなくて、及川さんと過ごしていた日々と違う行動をとりたくなかっただけだった。及川さんがバレーをやめた今でも、俺が持っている及川さんとの繋がりはバレーだけなのだった。

 朝も早く来て練習する癖に、俺はやっぱり夜も残って練習した。だって及川さんはそうしていたから。家に帰っても何も楽しいことなどないから。俺の心を動かすものはこの世界になくなってしまったから。だから時間を潰すためにへとへとになるまでバレーをした。

 そうして俺が夜の十時前になってやっと帰宅すると、俺の部屋の扉の前に薄い茶色の猫が待っているのだ。猫は俺を見ると待ちわびたと言わんばかりににゃあんと一声鳴く。俺はそうやって待っている姿を見るのが好きで、だから夜遅くに帰るのが少し好きだった。

 シャワーを浴びて、ベッドに入って電気を消すと猫はおもむろに俺の横にやってきて丸くなる。丸くなった猫を抱いて、俺も丸くなる。そうすると及川さんと一緒に寝ていたのを思い出して、また少しだけ声も出さずに泣く。そうやってひっそりと少しずつ涙を流して、いつか全部の涙が流れたら、俺は及川さんを忘れるのだろう。猫の身体に頬を寄せると、猫の匂いが鼻腔をくすぐった。このどうしようもない獣臭さが、俺は案外好きだった。小さな猫は俺よりずっと熱くて、呼吸する度に大きく体が上下した。生きていることの証みたいに体全体で息をする猫が、死んだように生きる俺には無性に羨ましくて、生まれ変わったら絶対に猫になろうと誓った。

 

 

 季節はもう冬になろうとしていたけれど、俺の中で失恋が風化する兆しは少しも無かった。毎日が虚しくて、唐突に大波のような寂しさに襲われて呆然として涙したり、夜中に目が覚めて抑えようのない怒りに支配されたり、今でも及川さんを好きだと思ったり、あんな人不幸になって死んでしまえと思ったりした。それでも毎朝学校に行って授業の合間に自主練をしたり、全体練習で先輩からスパイクの精度を褒められたりもした。俺が生きる気力を失って、もう何にも心を動かされたりしないことを知っているのは、岩泉さんと猫の、一人と一匹だけだった。

 岩泉さんからは、たまに連絡が来るようになった。元気にしているか、とかご飯の誘いだったり、律儀な彼らしいと思った。及川さんのことが話題に出ることはなかったし、きっと及川さんに頼まれてやっているのではないことは、岩泉さんの面倒見のいい性格から考えたら自然と察せられた。

 冬の寒い日の朝、岩泉さんから花巻さんも誘って三人で飲もうと連絡が来た。岩泉さんとは家も近かったから、たまに奢ってもらったりして二人で夕飯を食べることはあったけれど、花巻さんの名前を聞くのは久しぶりだった。二つも学年が違ったから、先輩から誘いが無い限り及川さんたちの学年の先輩とは自然と疎遠になっていた。だからこれは、岩泉さんに何かしらの思いがあって花巻さんを呼んだのだろう。

「久しぶりだな、国見」

「お久しぶりです花巻さん。岩泉さんこんばんは」

「よう」

「なにお前らそんな頻繁に会ってんの?」

 久しぶりに会うのに少しも変わらない気軽さで花巻さんは笑った。

「国見変わんねーな」

「そうですか」

 俺はこの人から見て、最も濃密な時間を過ごしていた高校一年の頃と少しも変わらないのだろうか。自分ではわからなかった。でも花巻さんは昔よりずっと大人っぽくなっていた。笑った時に目尻に出来る皺が、それ相応の年月の移ろいを感じさせて、でもずっと彼の雰囲気を柔らかくしていた。過ぎ去った時間に固執せずに、けれど忘れたりしないで、新しいものをたくさん吸収して、ゆっくりと着実に動いていく時間の主導権を握る。この人はとてもきれいに、賢く、歳を重ねているのだろうと一目でわかった。俺が高校時代と変わらなく見えるとしたら、それはきっと俺がいつまでも過去にしがみついて今を見ていないからなのだ。

「国見、入れ替え戦残ったんだってな。よかったじゃん」

「まぁそうですけど、入れ替え戦なって怒られましたよ」

「でも残れたんだしよかったな」

 俺のいるチームは、及川さんがセッターだった頃より弱くなった。今のセッターの二年生はよくやっているが、それでもまだチームは新体制での実力を出せずにいた。順位が下がり入れ替え戦になったが、なんとか勝利して残ることが出来た。入れ替え戦になったことで監督はたいそうお冠だった。俺からしたら、及川さんが抜けたのに今まで通りでいれるわけがないのに、何を今更といった気分だった。及川さんがいないのにチームが強くなった方が嫌だ。俺はそう思って、ビールをグッと煽った。それを見て岩泉さんと花巻さんは声を立てて笑った。

 花巻さんがいたからだろうか。俺も岩泉さんも普段よりたくさんお酒を飲んだ。花巻さんも楽しそうに見えた。及川さんの話は出なかった。岩泉さんも花巻さんも、示し合わせたようにただ自分たちの今のことだけを話した。岩泉さんが初めて取引先に行った時の失敗談、花巻さんの彼女の奇行、いらないものを衝動買いしてしまった話、どれもおかしくて、同時に途轍もなくどうでもよかったから、俺は腹を抱えて笑った。どうでもいいことが楽しかった。

すっかり酒が回った頃、岩泉さんが席を立った時に、花巻さんは一つ溜め息を吐いて言った。

「国見さ、及川以外の世界も楽しいことあるよ」

 その言葉で、俺は急に現実の世界に引き戻された。つまらないことだらけの空虚な世界だった。俺は持っていたビールをドン、と音を立ててテーブルに置いた。なんこつの乗った小皿が揺れた。花巻さんはそんな俺を見て楽しそうに笑った。俺は明らかに不機嫌な顔をしていたけれど、花巻さんは少しもひるまなかった。

「ほんとに。楽しいよ」

「そんなわけないじゃないですか」

 俺はイライラしてほとんど花巻さんの言葉にかぶせるようにして怒鳴った。花巻さんは頑なな俺を見てもっと笑った。

「お前は昔から頑固だし、及川しか見てなかったもんな」

 大人ぶった言い方が癪に触って、でもきっとこの人は二年の年齢差以上に俺よりずっと大人なのだと冷静な部分で理解していたから、俺は何も言えずに黙り込んだ。

「及川も罪な男だなぁ」

 花巻さんはしみじみとそう言って、残っていた梅酒を飲みほした。空のガラスコップに残された氷がからんと音を立てた。

 俺がこうなってしまったのは、及川さんが悪いのだろうか。じゃあ及川さんがあんなふうになってしまったのは誰が悪いのだろう。影山?それとも白鳥沢の牛島?及川さんに足りない部分を補う力を持っていなかった俺たちチームメイト?一流に育て上げる知識のなかった監督とコーチ?

 誰かのせいにするには、たくさんの人が関わりすぎているように思えた。それに、及川さんがあんなに悩んで苦しんで決めたことだから、誰かのせいにしては及川さんに失礼な気もした。他人は誰も、自分の人生の責任を取ってはくれないのだ。俺の人生の責任も、及川さんは取ってくれない。俺はこれから、及川さんのいない世界で、自分の力だけで止まっていた時間を進めなくてはならないのだ。だってこれは、俺の人生だから。

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