岩及前提 1.国→及 2.花国 3.岩金
2014 金田一、岩泉誕
1
「だからぁー、国見ちゃん絶対料理のセンス無いってぇー」
「はぁ」
「だってチョコレートだよぉ?」
及川が笑いながら「チョコベビィ」と書かれた透明なケースを振ると、中の小粒のチョコレートがカシャカシャと鳴った。顔の造形が綺麗な及川が足を組んで尊大に腰かけると、古い木造の椅子ですらそれなりに見えた。及川の腰かける椅子とお揃いの木製のテーブルは、使い古されて所々汚れていたが、男所帯の運動部では誰も気にしないので、テーブルの上には様々な食材が所狭しと置かれていた。
先輩たちに頼まれて買い出しをしてきたのは金田一と国見だったので、ここに置かれた食材は二人のチョイスである。「放課後たこ焼きパーティするよ!材料買って来て!」と昼休みに唐突に及川から連絡が来て、急遽買い出しに行き帰ってきて今に至るという次第だった。
「いやいやいや、チョコは意外とあうよ、うん」
さすが国見、できる男だわ、といつの間にか及川の後ろにいた花巻が口を出した。
「えー、なにそれ。マッキー、俺より国見ちゃんの肩持つって言うの!いつからそんな仲になったの!」
「いや俺甘いの好きだし。イケメン主将及川クンのことも好きなんだけどねぇ、常に眠そうでちょっとやる気の無い後輩も最近かわいくてさぁ」
岩泉が貶すのに対して、花巻はいつも及川の顔を褒める。冗談めかした言葉で、けれどそこに本心があると国見は思っている。花巻が褒めるから、及川は花巻に対してだけ普段よりちょっと多く自意識過剰な発言をする。花巻はそんな及川を見てニヤニヤ笑っている。国見はそれが嫌いだった。及川が自意識過剰な発言をして、みんながそれに対して冷たい態度を取る、という決まりきったコミュニケーションが、及川と花巻の間だけは成立しなくなる。特別な流れが生まれる。二人だけ、特別な。
だから今のやりとりにも、国見は内心穏やかではなかった。いつも及川の顔を褒めるだけの花巻が、なぜか及川より自分を褒めたのが少し恐ろしかった。もしかしたら、自分がいつもあのやりとりを良く思っていなかったことに、花巻は気付いたのかもしれない。顔には出していないつもりだったし、もともと感情が読み取れないと言われるような性質だけれど、花巻にはバレたのかもしれない。花巻には、及川と少しタイプの違う鋭さがある。
国見は花巻のいつもと違う言葉に、心がぞわぞわと波立って落ち着かなかったけれど、それを悟られたくなかったので、付き合いきれないとばかりに溜め息を一つ吐いて材料の準備に戻った。後ろの流し台では金田一がタコ相手に悪戦苦闘していた。
「国見これどれくらいに切ればいいんだよー」
「わかんね。てきとうに?」
「適当ってどれくらいの大きさだよ」
包丁を持ったままウンウン唸っている金田一の肩越しにまな板の上を見ると、茹でだこが3㎝程の大きさに切られていた。うん、たぶんこれよりは小さい。というかこの大きさだとたこ焼きの中に入らないだろう、と国見は思った。この同級生はいったいたこ焼きをどれくらいの大きさの食べ物だと思っているんだろうか。でもそれを指摘するとこの面倒な仕事が国見に回ってきそうで、正直嫌だな、と国見は思った。
「いやこれはでけーデショ。貸してみなー」
国見が黙って思案している間にやってきた松川が、金田一からひょいっと包丁を奪った。先輩に手伝ってもらうわけにはいかない、と焦った金田一と国見が何か言う前に、松川はひらひらと手を振って二人を追い払う仕草をして、「俺料理得意なの」と言った。言葉の通り、松川の包丁捌きは安定していて、やわらかくぐにゃぐにゃとして切りにくいタコの足相手に危なげなくトントン、と切っていく。
「こっちやったげるから、たこ焼き粉溶いといて」
あざーす、と元気良く返事した金田一と共に、あざす、と小さく返事した国見が及川のいるテーブルに戻ると、話題はまだ国見の買ってきた食材についてだった。いつの間にか岩泉もテーブルについている。金田一と国見が岩泉に挨拶すると、岩泉は笑って「おう」と手を挙げた。今日の主役に、お誕生日おめでとうございます、とか言うべきか、とも思ったけれど、毎日顔を合わしている相手になんとなく気恥ずかしくて二人が考えあぐねている内に、岩泉が先に口を開いた。
「国見、これ買ってきたのお前なんだって?」
岩泉も先ほどの及川と同じように、チョコレートの入った透明ケースをカシャカシャと振りながら尋ねた。
こういうふとした時に、国見は及川と岩泉が似ていることに気付く。ちょっとした質問の時の語尾の調子だとか、パックのジュースを飲む時のストローの出し方だとか、練習でヘマをして怒られた後輩を慰める時にする笑い方だとか、そういった些細なところがとてもよく似ていると思っていた。それはこの二人の一緒に過ごした年月の長さがそうさせたのか、それともどちらかがどちらかに影響を与えているのか、そこまでは国見にはわからなかったが、なんとなく、この二人の間には普通の友人関係とは違う空気が流れると感じていた。けれど、その疑念を確信に変える勇気がなかったので、国見は出来るだけ見て見ぬふりをしていた。
国見が密かに憧れる及川は、もしかしたら岩泉のことをそういう意味で好きなのかもしれない、と思っていても、それを可能性の内にとどめたかったのだ。
岩泉は優しい。後輩には特に優しい。面倒見も良くて、兄がいたらこんな感じだろうか、と国見はたまに思う。お世辞にも愛想がいいとは言えない自分のような性格の後輩に、最初から積極的に関わってくれたのは岩泉が初めてだった。だから岩泉のことも好きだった。先輩として尊敬しているし、同じウイングスパイカーというポジションだから彼の技術の高さもよくわかっている。
国見は小学生の頃からバレーをしていた。中学に入ってもバレーを続けたのは、惰性みたいなものだった。学校全体の雰囲気が、一人一つの部活に所属することを要求していた。なんとなく行った体育館で、入り口に立ってなんとはなしに中を覗いた。ひとりだけ、他とは違う人がいた。国見にはその人が自分と同じタイプの人間だとすぐにわかった。普通よりもずっと整ったきれいな顔で、にこにこと笑って、皆の中心になって、広い体育館をその人が制圧していた。誰がどう見てもその人はスターで、近付きたい存在だった。けれど、国見にだけは見えていた。その人がとても注意深く自分自身を作り上げていて、中身はまるで別人だということが。国見はその人がとても気になった。
入部してすぐの頃、部内で少し浮きがちだった国見の面倒を岩泉が見てくれるようになって、彼を通して及川徹という男と関わるようになった。そして、自然に、まるでそうなるのが当たり前みたに、国見は及川を好きになった。同性だけれど、恋愛感情として好きなんだ、とすぐに自覚したし、簡単に受け入れられた。及川徹という男には生まれ持ったカリスマ性があり、人を魅了する不思議な雰囲気があったから、年上で部の主将で、かつ見た目の整った及川徹という人間を好きになることなんて仕方ない、と国見は思っていた。及川への恋心を認めた時、好きなんて簡単に訪れる感情なんだな、と国見は妙に感心したものだった。そうして、少し絶望した。国見が焦がれるような初めての気持ちを自覚した時、同時に岩泉と及川の間に二人だけの空間があることにも気付いてしまったのだ。他人を好きになったことで、好きだという感情を持った人間のことが、初めて見えたのだった。
「チョコだめっすか」
「いやいや、チョコはほんと正解だって」
花巻は笑いながら、先ほどのやりとりの時と同じ言葉を繰り返した。
「うそー、ほんとに?ねぇ、国見ちゃんの好きな食べ物なーにー」
国見が塩キャラメルです、と答えると及川と岩泉が「女子か」と声を揃えてつっこんだ。
「国見甘党なの?」
花巻が国見に向かってそう尋ねた時、「すみません、遅れましたー!」という声と共に矢巾と渡が駆け込んできた。一瞬そっちに気を取られた国見が振り返ってもう一度花巻を見た時、花巻はもう国見を見ていなかったので、国見は花巻の質問に答えられなかったことを残念に思った。そしてその後すぐに松川と金田一がたこ焼きの種を持ってやってきたので、国見はもうそれ以上何も話すことはできなかった。
岩泉の誕生日だから、という建前で、ただ皆で騒ぎたかっただけのような小さなパーティは、高校生男子らしく混沌を極めた会となった。ふざけた花巻が及川の頭にコンビニのショートケーキのクリームを付けたり、冗談でやった王様ゲームでは、花巻が松川の膝に座ってカップルのように「あーん」してたこ焼きを食べさせ合ったりした。国見に至っては、明日及川が練習メニューを告げた瞬間に、嫌です!と叫ぶという命令が下されている。他の先輩と監督たちがいる手前、一年の国見はさすがに拒否したが、主将である及川が許すので絶対やれとしつこく、及川が言いだすと聞かないのを十分に承知していたので仕方なく命令を呑んだ。花巻は大笑いして、明日はデジカメでムービー撮る、と張り切っていた。みんな腹を抱えて、目じりに涙を浮かべて笑っていた。
いつもは及川のふざけた態度に目を三角にして怒る岩泉も、おかしくて目に涙を浮かべて笑っていた。国見には、二人が隣り合った席で、必要以上に密着して座っているように見えた。
そうしてそろそろ帰らなければ、と皆が後片付けをしている時、部屋の隅で体を寄せ合った岩泉と及川を、国見はごみ袋の口をくくりながら横目で見ていた。及川が岩泉の耳元に唇を寄せて、何事か囁いた後、岩泉が及川の髪に付いていたショートケーキのクリームを指先でぬぐった。その時の岩泉の表情が見たこともないほど穏やかで、愛情に溢れていて、そんな風に及川を見る岩泉を、国見は知らなかった。四月に高校に入ってから、真綿で首を絞めるように、ゆるゆると自分の恋の行く末の暗さを感じさせられていたのに、急に高いビルの屋上から突き落とされたような気がした。
国見は予期せず自分の淡い恋が実らないことを確信した。
2
食ったなー、と花巻は笑いながら国見の隣に腰を下ろした。一人になりたくてこっそり出てきたのに、まさかこんな時にこの人が来るなんて、と国見はバレないように小さく溜め息を吐いた。
片づけが終わる頃、国見は誰にも気付かれないようにエナメルバッグを肩にかけると、こっそりと部屋を後にした。向かう先は特に決めていなかった。なんとなく歩いて辿り着いたのは、校舎の横にある図書館棟だった。この時間でも自習室が解放されている図書館にはちらほらと人の出入りがある。人通りを避けて、国見は図書館の裏口に回ると、コンクリートの段差に腰を下ろした。左手に赤々と輝く夕陽が照っていて、目障りだと思ったが、今更場所を変えるのも億劫だった。
そうして国見が腰を下ろして1分もしないうちに、国見が通ってきた道と同じ道から花巻がやってきて、なにしてんの、と薄い唇を吊り上げて言ったのだった。この人着いて来てたのか、性質が悪いな、と嫌味の一つでも言ってやろうかと思ったけれど、口を開くのもなんだか面倒に感じて、座る位置を少しだけ左によって、彼の座るスペースを作るに止めた。
唇を吊り上げてニヤニヤ笑っていた花巻は、国見のその態度に、今度は声に出して少しだけ笑った。国見はちらっと花巻の顔を窺ったが、やっぱり何も言わなかった。面倒だったのではなくて、何を言えばいいのかわからなかったからだった。
国見はお世辞にも愛想がいいといえる人間ではなかった。普段一緒にいる同級生の金田一が溌剌として良く話し、年上に好かれるタイプだったので、相対的に印象が悪くなるのもあり、国見はあまり先輩に可愛がられなかった。それは国見自身わかっていることであったし、特にそれを気にしたことはなかった。誰かにおべっかを使うのも、楽しくも無いのににこにこ笑うのも大嫌いだった。そんな考え方だから、どうしても国見は一人になることが多かった。
しかし、この花巻貴大という男は、ここ3か月ほど、なぜかわざわざ自分に関わろうとしてくる、と国見は感じていた。それが自意識過剰の勘違いであるのか、事実花巻が国見に興味を持っているのか、そういった客観的な、かつ他人の心を見透かした上での判断は国見の得意とするところであった。しかし、花巻貴大という男に関して、国見には彼の行動の意図が読めなかった。
冷静に他人を観察してその行動や発言の真意を見破ることは、国見にとっては簡単なことで、いつの間にか身についていた能力だった。及川のように、あちらからも抜け目なくこちらを観察して心を見透かそうとしてくる人間相手にはなかなかうまくいかないが、たいていの時は、国見にはなんとなく見えてしまうのだった。だから国見は、周りの人間がつまらなかったし、同級生のことは子どもっぽく感じた。
国見が及川を意識したのは、同類だと気付いてしまったことがきっかけだったのだと思う。周囲の人間を観察して、他人の心を見抜いた上で自分に有利になるように行動し、発言する。国見には他人の気持ちが読めても、それに合わせて自分の行動を変えようという気持ちはなかったので、及川徹という人間を知った時、器用な人だなと思った。国見はむしろ、他人のことがよく見えすぎる故に、周囲の人間に対して辟易し、距離を置いていた。言葉と心が全く違う、お世辞や建前ばかりの姿をうまく隠すことも出来ない人々に対し、つまらなくて馬鹿な奴だと呆れた。及川はそういう点において、国見より明らかに世渡り上手だった。自分と同じように世界が見えているのに、ずっとうまく立ち回って、楽しそうに笑っている及川は、国見にはとても大きく見えた。
同級生たちが幼く感じていた国見にとって、中学で出会った及川徹という同種の人間は、人生で初めて見つけたロールモデルだった。だからどうしても近付きたいと思って焦がれたし、いつからかそれは恋になった。
そして、高校に入って数か月、国見は少しずつ気付き始めていた。花巻貴大という男が自分や及川と同種の人間であることを。及川に出会った時の、一目でわかる圧倒的なものと違って、花巻のそれはじわじわと表れていった。
皆で話している時に、誰かが言った小さな嫌味、誰も気付かないような悪意に、国見が苛立ちを覚えて目を細める時、ふと感じた視線に顔を上げれば何か言いたげな表情で花巻がこちらを見ていたこと。会話の途中、国見が本心を隠して別の言葉を吐いた時に、薄く笑う口元。国見が誰にも見つからないように最大の注意を払ってほんの少しの間だけ及川を見つめている時に限って、国見の傍にやってくる花巻が、心底楽しそうに悪い顔をして笑っている目元。
国見はなんとなく人が隠した本心に気付くことができるけれど、その能力は及川や花巻のような同類に対してはどうしても発揮されないのだった。けれど、向こうからはなんとなく、国見の心が読めているように感じる。それが能力の差か、年の功なのかはわからないが、だからこそ国見は花巻を見ると得体の知れないものへの恐怖心から心がざわめくのだった。
「岩泉さん、喜んでくれてよかったっすね」
「おまえ、岩泉のこと好きだよなー」
そう言って花巻が笑ったのを、国見は隣から伝わる息遣いで感じた。花巻と話す時はいつも、目を合わせて話すことができない。目を合わせたら自分の気持ちを全て見抜かれそうで恐ろしかった。
しかし、それよりもずっと強い気持ちで、この人に自分の本心を全て見抜かれて、そうして尚、受け入れてほしいと思っている国見自身もいた。だから国見は、彼がそばに来ることを許してしまった。突然の失恋に、国見はそれなりにショックを受けていたけれど、でもどこかでそうなることを予想していた自分は、悲しみよりも諦めの気持ちの方が強かった。誰かと気持ちを分かち合うことを諦めるのは、国見は慣れっこだった。人より鋭くて、他人の好意も悪意も、望むと望まざるとに関わらず敏感に察して生きることの孤独を、花巻ならばわかってくれるのではないだろうか。
国見の気持ちをわかって、そして受け入れてほしい。同じ気持ちを共有できる人と話したい、という気持ちが国見の中で大きく膨れ上がっていった。及川に対しては憧れた時は、その憧れの理由がわからなくて、いつの間にか恋していたけれど、今ならわかる。あの時国見は、マイノリティである自分と同じ種類の人を見つけて、同じ気持ちを共有したいと切望していたのだ。だから、人生で二人目の同類の人間に心の内を曝け出してしまいたい衝動と、15年の人生の中で培ってきた他人への警戒心とが、国見の心の内で衝突していた。
「ねぇ、さっきの話」
さっきの、と唐突に言われて、国見は少し戸惑った。考え事をしていたのもあって、何を指して“さっきの”と言っているのか掴めなかった。
「さっきの、国見の好きな食べ物何かって、及川の質問」
覚えてる、と花巻は目を細めて首を傾げた。こうして花巻が目を細めた時、国見はいつもどきりとする。人間らしく愛想良く見せるための作られた笑顔だと国見にはわかっていた。及川もよくこういう表情をする。自分にはどうしても出来ない。
「――塩キャラメルって言いました」
「うん、それで、俺の質問も覚えてる?」
覚えていた。甘党なのかと聞かれた。国見は答えたかったのに、答えるタイミングがなかったのだ。花巻が目を逸らしてしまったから。なのにまるで国見が会話を切り上げたかのように言われている気がして、少しだけ苛々した。
「甘い物よく食べますけど」
「へー!俺も!」
シュークリーム、と言って花巻はニッと笑った。知ってる、と国見は心の中で答えた。見ていたから、知っている。
「国見も甘い物好きなんだなー、意外だ。ギャップ萌えきたわ」
「なんすかそれ」
「だっておまえって食べることにすら興味無さそうじゃん。生きるのに必要なだけしか食べないし、味もどうでもいい、みたいな顔してる」
「してない」
「いやいや、してるしてる」
そう言って笑った顔は、普段の彼の雰囲気に比べてやっぱり幼く見えた。
「仙台駅んとこにさぁ、スイパラあるんだよね」
「はぁ」
「行ってみたいけど、俺彼女いなくて」
「へー」
知ってます、と国見が言うと、生意気、と言って花巻は笑った。このやりとりが、花巻からの遠まわしな誘いだと国見はすぐに気付いた。しかし、この人は自分がのってくることをわかっていて誘っているのだ。それに乗せられるのは主導権を握られているようで嫌だった。この人はきっと勝ち戦しかしないような人だ。だって、心が読めるのに、わざわざ断られるような誘いはしない。花巻は、国見の彼への気持ちに薄々感付いている。そう思うと、急に恥ずかしくなった。
「国見甘い物食べれるでしょ」
「はい」
「男だけで甘い物食べに行くのって変だよなぁ」
「そうっすね」
「若いから大丈夫かな?」
「まぁ」
「男二人はおかしい?」
「どうっすかね」
「大人数で行けば大丈夫かなー」
「はぁ」
「じゃあ、今度の月曜、みんなで行く?」
どうして途中まで二人で行くような流れだったのに、ここで部活の皆で行くなんて話になるのだろう。そもそも部活の皆は甘い物なんて興味無いだろう。興味があるのは自分と花巻だけなのだから、二人で行けばいいではないか。国見は内心そう思ったが、「二人で行けばいいじゃないですか」とは言えなかった。
「そうっすね」
国見は内心の落胆を隠して答えた。花巻はちらっと横目で国見の表情を窺ったけれど、つまらなさそうに「ふーん」と言った。国見には彼の意図が読めなかった。それが無性にイライラした。
しばらくの沈黙の後、花巻が小さく溜め息を吐いた。そんな態度を取られる筋合いはない、と国見はまたイライラした。けれど何も言わなかった。口を開いたのは花巻だった。
「――ほんとにそれでいいの?」
花巻の声は感情が無く、とても冷たかった。国見が驚いて顔を上げると、すぐそばに花巻の顔があった。あとほんの少しでキス出来るな、と国見は冷静に思った。花巻は先ほどの冷たい声に反して、とても優しい笑みを作ってもう一度繰り返した。
「ね、ほんとにそれでいいの?」
国見は間近に迫った花巻の瞳をじっと見つめた。色素の薄い肌と目が、この訳の分からない男を更に不気味にしているのだ。コンクリートの石段についた国見の掌に、花巻の手がそっと重なった。熱い手だった。この人と二人で出掛けたら、きっと今まで自分が構築してきた他人との関係が、全て変わってしまうだろう、と国見は思った。
国見は他人と距離を置いていて、こっそりと及川徹という男の先輩のことが好きで、そして花巻貴大という男のことを少し恐れている。けれど、それが全部変わってしまうのだ。
「――ふたりで行きたい」
全部変わってもいい、と思った。
3
誕生日プレゼントに買ってもらったばかりのG-SHOCKを、朝練の時に部室のロッカーに忘れて来てしまったことに気付いたのは四時間目の古典の授業の最中だった。お経のような音読の最中、ふと自分の腕を握って、そこにあるはずのものがないことに気付いた。金田一は仕方なく、部屋の片づけが済んだあと事情を話して、及川から部室の鍵を借りて取りに来ていた。さっき誕生日パーティをした部屋に帰っても及川がいなければ、明日は朝一番に来て部室の鍵を開けなければいけない。うっかりしていた自分を呪った。
自分は少し抜けているところがある、と金田一は思っていた。しっかり者という褒め言葉は16年の人生で一度も頂いたことがない。金田一は、岩泉のようなしっかりしていて男らしい硬派な人物になりたかった。及川のようなカリスマ性があってなおかつ顔もいい男になれればそれは御の字だが、生まれ持ったものはどうしようもない。それに及川の凄さや恐ろしさは、金田一にとっては遠い存在で、自分が及川に近付くのは憚られるような、一種の偶像崇拝のような気持ちだった。
チームの先輩たちは及川の冗談や調子の良い言動に呆れたような素振りを見せるが、冗談めかした態度を取りつつも誰よりも一生懸命に自分を追い込むことのできる及川を、金田一は心の底から尊敬していた。そんな相反する姿を他人に見せているのに、及川徹という人物を芯の通った一人の人間として皆にしっかり理解させること、そんな複雑なことができる人はなかなかいない。そこがあの天才セッター影山との違いで、及川の凄さだと金田一は思っていた。
一度、国見と二人になった時に、自身の及川に対しての気持ちを伝えたら、それは偶像崇拝だ、と言われたことがある。金田一は及川徹自身を見ているのではなくて、その表面を美化して自分の都合の良いようにしているだけだ、と。普段無口な国見が急に饒舌になって驚いたことを覚えている。では国見は及川をどう思っているのか、と聞いたら、お前より俺のほうが、と言った後、急に押し黙ってその後はもう何も言わなかった。
国見の言いたかったことがなんなのかはわからなかったが、少なくとも国見も及川に対して並々ならぬ想いを持っていることだけは金田一にもなんとなくわかった。でも、本当に国見の言うように、自分が見ている及川徹という人物は幻覚なのだろうか。
「金田一」
部室から出て鍵をかけていたら、聞きなれた低い声に呼ばれて振り返る。金田一がいる部室棟の階段下に岩泉がいた。考え事をしていたせいか岩泉がこちらへ来る足音に気付かなかった金田一は、声をかけられて驚いて鍵を取り落としそうになった。
「岩泉さん」
「忘れ物あったか?」
岩泉は、二階にいる金田一に手招きをしながらそう言った。慌てて鍵をかけて階段まで走る。
「すみません、岩泉さん。今戻ろうとしてたんすけど」
「いや、遅いから来たわけじゃねーよ。これ」
そう言って岩泉は手に持った紙袋を差し出した。受け取れという意味だろうか。何か預けっぱなしにしていたり、貸してもらう約束をしていただろうか、と金田一が思案していると「及川と俺から。誕生日だっただろ」と岩泉は言った。
「え、あ、はい。え!」
咄嗟に受け取った紙袋と岩泉の顔を交互に見る。まさか知っていたとは、という驚きでしどろもどろになる。その様子を見て「びっくりしたか」と言って岩泉は白い歯を見せて笑った。
「こないだ及川と出かけた時に、あいつがもうすぐ金田一の誕生日だって言うから買ったんだ。別にたいしたもんじゃねーけど。後輩みんなの誕生日祝ってるわけじゃねぇから、俺たちからもらったことは秘密な」
そう言ってニッと笑ったので、金田一は嬉しくて心臓がドキドキと鳴った。及川が自分の誕生日を覚えてくれていて、岩泉と及川の二人でプレゼントを買ってくれた。それは後輩皆がしてもらえることではなくて、三人だけの秘密だということ。岩泉の言葉の全てが金田一を喜ばせた。興奮でドキドキと大きく脈打つ心臓と、嬉しさで紅潮する頬、憧れの先輩が、自分を気にかけてくれているという事実がとてつもなく嬉しかった。
「あ、ありがとうございます。これ」
紙袋の口から中を覗くと、白い袋が入っていて青いリボンで巻いてあった。岩泉よりも背の高い金田一が袋を覗き込んだまま目線だけ上げて上目遣いで岩泉を見る。そのキラキラした真っ黒の瞳を見るだけで、開けていいかというサインだと岩泉は理解した。
「おう、あけろあけろ」
たいしたモンじゃねーぞ、と言う傍で金田一が待てを解かれた犬のように嬉しそうにガザゴソと袋を開ける。中からは岩泉と及川が使っているブランドと同じところの膝サポーターが出てきた。
「おわ!これ!アシックスの!」
「おう、俺たちと一緒のだけど」
「嬉しいっす!」
「そうか、よかった」
岩泉が「及川も喜ぶ」と言うのにかぶさるように
「俺、岩泉さんみたいになりたくて!」
と金田一が大きな声で言った。大きな手でサポーターを掴んだまま、岩泉の両手をギュッと掴んで力いっぱい握手するようにぶんぶんと振り回す。
「だから、嬉しいっす! もっと頑張ります!」
「お、おう」
すごい勢いだな、と岩泉は少し気圧されて笑う。中学の頃と違って、金田一の身長は岩泉より大きくなっていたが、それでもこうして慕ってくる姿は人懐っこい大型犬のようで可愛いもんだな、と岩泉は思った。
「あ、俺、及川さんにもお礼言わないと!」
ハッと気付いた金田一が、そのままさっきの部屋まで走って行きそうだったので、岩泉が慌てて止める。
「及川はみんなと先帰りだしとくってよ。だからそっちじゃなくて」
こっち、と言って岩泉は正門の方向に金田一の体を向けさせる。行こうぜ、と言う岩泉に、慌ててプレゼントを袋に戻して隣を歩く。金田一は、岩泉と二人っきりになるのは初めてだった。
「あ、及川たちに追いついてもお礼は言うなよ。秘密だからなー」
「あ、そうっすね」
忘れてた、と呟く金田一に、岩泉が笑う。
「おまえ、しっかりしろよー、もうボケ始まってんのか」
しっかりしろ、という言葉に金田一は先ほど考えていたことを思い出す。自分はしっかり者には程遠い、その点、岩泉は自分が知っている中学三年の頃からしっかりしていて、あの頃から後輩の面倒もよく見ていた。自分が中学三年の頃は、後輩の面倒を見るどころではなかった。同じ学年ですらうまくまとまることが出来なかった。苦い記憶がよみがえる。
「俺、岩泉さんみたいにしっかりした先輩になりたいっす」
「あ、おれ?」
金田一の唐突な告白に、岩泉の口から間の抜けた声が漏れる。
「岩泉さん、いつもかっこいいし、男らしいし、頼りになる先輩って感じだし、優しいし、それにすっげースパイク決めるし」
「ちょ、まてまてまて」
どうしたんだよ、と突然のことに困惑した岩泉が金田一の正面に立って彼の言葉を止める。僕は褒められるのは苦手です、というのが顔に書いてある、と言いたくなるほど、岩泉は焦って、頬を染めていた。
「いや、ほら、そんな俺、お前が言うようなんじゃねーよ!だって、俺は及川と違って女子にもモテねーし、かっこいいとか全然言われたことねーべ」
興奮して急に饒舌になった金田一と同じように、岩泉も急に話し出す。照れ隠しのように、岩泉は早口で自分を卑下した。
「それに、ほら、俺のスパイクがすげーんじゃなくて、あれは及川のトスが凄いんで……」
「んなことないです!岩泉さんはすごいです!」
岩泉が言い終わらない内に言葉をかき消すように大きな声で金田一が言った。大声に驚いて固まった岩泉に対して、金田一は興奮して、まくしたてる。
「及川さんは確かにすごいです!めちゃくちゃすごいです!でも、でも岩泉さんもほんっとーに!凄いです!かっこいいです!岩泉さんは俺の憧れなんです!」
力いっぱい、身振り手振りを交えて金田一は力説した。そしてやっと一息吐いて、我に返って岩泉を見た。岩泉は耳まで真っ赤にして金田一を見ていた。その時になってはじめて、金田一は自分がとても恥ずかしい告白めいた発言をしてしまったことに気付いたのだった。金田一は、自分の顔に熱が集まってくるのを他人事のように遠くで感じた。
「あ、その、おれ……」
そうして二人して顔を真っ赤にして、しばらく見つめ合っていたが、ぶはっと空気が漏れるように岩泉が噴出した。
「いや、まぁ、お前が俺のこと好いてくれてるのはよーくわかったよ」
ありがとうな、と彼は言って、金田一の頭をぽんぽん、と叩いた。その仕草は、いつか自分に彼女が出来たら格好良くキメたいと思っていた行動だったので、金田一はそれを思い出してしまいまた頬に熱が集まるのを感じた。ただの先輩後輩としての行動で、こんな格好良く頭をぽんぽんしてしまえる岩泉一という先輩の能力はいったいどうなっているのだろう、と金田一は赤くなりながら思った。金田一の内心の焦りも知らずに、岩泉は楽しそうに笑った。
「お前、本当に真っ直ぐ育ったよなぁ。なんつーか、俺、お前のことは本当、何も心配してないわ。お前だったら、この先バレーのことにしてももっと別のことにしても、悩んでも絶対、捻くれたりせずにいい方向に解決できると思うよ。それに、もし国見とか同級生が悩んでても、お前が一緒に解決してくれるんだろうなって思うんだよ。だから、なんだかんだ、今の一年は心配ねーべな」
そう言って岩泉はバシッと金田一の背中を叩いた。金田一がいてっ、と反射的に声を出すと、岩泉はわりぃ、と言ってまた笑った。
体育館横の細い道を抜けて、校舎に面した角を曲がると、すぐに正門がある。先に行った先輩たちの背中が見えて、岩泉が大きな声で皆を呼ぶ。夕陽で逆光になった背中が動いて、一斉に振り返る。及川が立ち止まってこちらに手を振る。
金田一は、先ほどの岩泉の言葉を考えていた。何も心配していない。悩んでも、いい方向に解決できる。国見たち同級生のことを支えてやれる。それが岩泉の、金田一への評価だった。自分の知っている金田一勇太郎という男とは全然違っていて、しっかりしていて男らしい人物だ。不思議な感じがした。それはまるで、金田一が見ている岩泉一という男のようだった。人は、自分が好意を持って見ている人物とは、行動やふとした時の仕草が似てくるらしい。じゃあ、これはそれのもっと規模の大きな感じのやつかな、と金田一は思った。
向こうで及川が「金田一ずるいー!」と叫んでいる。考えるのに夢中で、何がずるいのか聞いていなかった。やばい、と思ってとりあえず金田一は「はい!」と言って及川に駆け寄った。噛み合わない返事に皆が笑った。やっぱり岩泉が言うほど自分はしっかりしていないじゃないか、と金田一は思った。岩泉が笑って、ぽんぽんと金田一の頭を優しく叩いた。