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「わー、矢巾だ」

 立てつけの悪い古い扉が不穏な音を響かせたのに釣られて顔を上げると、我らが主将である及川徹が首にかけたタオルで汗を拭きながら入ってきた。まだ残って自主練をしていたのか、と矢巾はその時初めて気が付いた。部室の鍵が開いているということはつまり、主将か副主将が残っているということなのだが、さっき岩泉が帰ったのでつい及川ももう帰ったものと思い込んでいた。

「お疲れ様です」

 よくやるな、という感情を殺して矢巾は普段通りの調子で言った。この人はこの大会に懸けているのだろう。及川にとって高校での最後の大会になる。

 青葉城西高校は、県内ではそれなりにバレーの強い学校だ。でも、全国に行けるかもしれないというレベルにまでなったのは、この及川徹というセッターが入ってからだ。矢巾も、及川がいるから青城に入った。不思議に思うかもしれない。自分と同じポジションで自分より明らかに実力が上の人物がいるバレー部に入るなんて、レギュラーになれないことが決まっているようなものだ。中学のバレー部の顧問の先生は矢巾の実力を買ってくれていた。お前なら高校でも活躍できる。一年からレギュラーも夢じゃないぞ、と。けれど、矢巾が青城に行きたいと言った時、顧問の先生はそれはやめろと言った。及川徹がいるからレギュラーになれない。試合に出て、実戦経験を積んで、勝って自信を付けろ。それがお前の強さになる。だから、青葉城西には行くな、としかめつらをして言った。

 けれど、矢巾の「青葉城西に行きたい」は、ほぼ気持ちの確定した上での言葉だった。だから、正しくは「誰がなんと言おうと青葉城西に行きたい」だ。そして宣言通り矢巾は青城に入学した。顧問の先生は髪の薄くなった頭をかきながら「お前はへらへらしてるようで頑固だ」と嘆息した。

誰にも話したことは無いし、これからも言うつもりはないが、矢巾は青城に行くメリットがあると思ったからここに決めたのだ。先生はレギュラーになって実戦経験を積めと言ったけれど、別に公式戦だけが試合じゃない。他校との練習試合も、部内紅白戦も、レギュラー以外のメンバーでの試合形式の練習も、矢巾は全て全力で挑んでいる。どんなことにも力は抜かなかった。それが自分の糧になると思ったからだ。

 それに、なにより、ここには一番近くに手本にすべきセッターがいた。ここでなら、矢巾は他のどの学校のセッターよりも、一番恵まれた“控えセッター”になれると思ったのだ。もし一番近くで及川のバレーを見て、その技術を、戦略を、戦術を盗めたなら、矢巾はどの学校で正セッターとして三年間を過ごすよりもずっと、高校三年の時にうまくなっていると思っていた。だから、矢巾は高校の二年間のレギュラーを諦めてまで青城に入ったのだ。

「矢巾、お前って結構几帳面だよね」

 部室の隅に置かれた古い机に向かう矢巾の上を不意に影が覆って、考え事をしていた矢巾は驚いて顔を上げた。いつの間にか傍に来ていた及川が、ノートの余白を埋め尽くすほど細かい字がびっしり書きこまれた部誌を見下ろしていた。

「几帳面っぽくないですか俺」

「えー、まぁそう言われれば小心者だしそうかもしんないけど」

 失礼な、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。小心者なら几帳面という理屈はいったいどこからくるのだろうか。矢巾の反応が見たくてわざと言っているようにも思えた。

 矢巾は、こうして及川の傍で彼のバレーを見て二年になるが、いまいち及川の性格が掴めなかった。幼馴染の岩泉や三年の花巻や松川は、及川の性格をわかりやすいと言う。一年でも一緒にバレーして見ていればわかる、と。矢巾はもう二年見ている。四月に入学して今は二年の冬だから正確には二年には満たないが、それでも入学してからはずっと、誰よりも及川のことを見てきたはずだった。

 矢巾が見ていたのは及川徹のバレーであって、及川徹の内面ではないのだろうか。その二つは別物なのだろうか。そこまで考えて、矢巾はふと思った。

「及川さんって」

「なに」

 矢巾が声をかけたのに、及川は口の端を上げて目を細めるだけで、そのまま踵を返してロッカーの方へ戻っていく。自分は好き勝手なことを言うのに、矢巾の話は聞かないとでも言いたげな態度だった。それでも矢巾は、次の質問で及川が振り返ると思っていた。

「信じてるよ、って言いますよね」

 試合の前に、と付け足す。及川はシャツのボタンを留める手を止めて、案の定振り返った。

「あー、言うね。なに、恥ずかしい?ちょっとイタイ?」

「え?いや、そうじゃなくて」

 矢巾は言うかどうか少し躊躇して、けれど結局口を開く。

「俺、言われたことないんで」

 レギュラーじゃないから、と言う言葉は言わなくても矢巾の意図したことは伝わったようで、及川は一瞬目を見開いた。

「そうだね」

 及川がボタンすら留められていないシャツを羽織っただけの姿で矢巾に向かってゆっくりと歩いてくる。その口許が薄く笑っていて、この人はこういうときすごく色っぽいけどすごく不気味だ、と矢巾は場違いなことを考えた。

「矢巾、お前はさ、俺と同じセッターだから」

 そう言って及川はぐいっと顔を近づける。及川の睫毛の一本一本まで見える近さになって、矢巾は自然に身を引こうとするが、その体を逃がすまいとばかりに及川の力強い手が矢巾の腕を掴む。

「俺はお前に優しくしないよ。自分の手で脅威になるやつをこさえるなんて、俺は絶対しないからね」

 そう言って彼は薄い唇を弧の字にしならせたが、それも一瞬で、すぐにいつものような軽薄な笑顔に戻って矢巾から身を離す。

「まぁ、お前はほっといても見てるだけで技とか盗んでくタイプだから俺がどうこうすることもないんだけど」

「影山飛雄みたいにですか」

 及川の薄い笑みが一瞬固まって、それからすぐに満面の笑顔になる。

「へー!言うようになったね!お前、そういうとこも及川さんに似てきたよ」

 そう言って笑った及川が背中を向けて着替えを再開したので、矢巾も部誌を書くことを再開した。

 矢巾は及川徹という人物がどんな性格なのかいまいちわからないが、本人曰く、どうやら矢巾自身知らず知らずのうちに似てきているらしい。

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