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悲恋、死ネタ

 

 

 俺が及川と別れたのは、及川のためでもあったし、自分のためでもあった。別れ際はそれはもうこじれにこじれて、喚いたり怒鳴ったり物を投げたり殴ったり、果ては薬を大量に飲んだり、もうこのままでは別れる前に及川は自殺するんじゃないかと手に負えなくなっていた。このままでは「男性同士、愛し合うことが許されない世を儚んで無理心中」なんてニュースが世間を賑わせそうで、半ば逃げるようにして8年二人で過ごしたマンションを飛び出てきた。今は一人で、もちろん彼女も彼氏も作らず寂しく暮らしている。

 別れる理由を、俺は出来るだけわかりやすく、嘘を交えず懇切丁寧に、何度も何度も噛んで含めるように及川に伝えた。嘘は言わなかったし、きれいごとも言わなかったけれど、一つだけ言わなかったことがあった。俺は少しも悟られずに別れたつもりだったけれど、今から思えば、勘の良い及川はその時既に気付いていたのかもしれない。

 今はまだ若いし金が無いから一緒に暮らしているだけの友人同士で済むけれど、歳を重ねればそうもいかなくなる。俺は誰かにこういう関係であることを知られるのは嫌だ。お前のことは愛しているけれど、まだ日本では同性同士の恋愛は受け入れられていないから、きっとバレると俺もお前も傷つくことになる。家族や友人を失うかもしれない。仕事も続けられないかもしれない。俺は今の仕事が好きだし、このままこの仕事で結果を残していきたい。だからお前と一緒にはいられない。お前と別れたい。俺と別れて、お前がいい女の人と出会って結婚して、子どもでも作って楽しく暮らしてくれたら、それが俺の幸せだ。俺はお前と別れたら、もう誰も好きにならない。結婚もしない。一人で寂しく生きて、死ぬことにする。だから俺と別れてくれ。そして幸せになってほしい。

 及川が泣いても怒っても、ただそれだけを繰り返した。何を言われてもそれしか言わなかった。それが本心だったからだ。最後は心中させられるのではないかと思い、逃げるように出て来たけれど、その一年後、風の噂で及川が結婚したことを知った。最初はよかったと胸を撫で下ろしたけれど、聞いていく内にその胡散臭さに眉を顰めることになった。

 及川は、どこで知り合ったのか、それはもう大層な大金持ちの未亡人と出会ってたった一ヵ月で結婚したらしい。しかも、その未亡人は八十近い年寄りだと言う。もちろんその老婆の親族は財産目当てだと大反対したらしい。孫のような年齢差の老婆と及川は、両家族や友人の大反対を押し切って結婚した。これがきっかけで、及川は家族と縁を切ったらしい。友人たちもほとんどが及川に呆れて離れて行ったそうだ。今、及川は仕事をやめてしまったらしく、その後どうしているかは誰も知らないらしい。あんな金持ちと結婚したら働かなくていいしそりゃ仕事もやめるよなぁ、と教えてくれた友人は半ば呆れて笑っていた。

その話を聞いた時、俺は自分の選択を後悔した。それでも、結婚相手が死んで遺産が入れば海外でもどこへでも行って残りの人生楽しく過ごせるだろうし、俺といるよりはずっとマシかもしれない、なんて思っていた。浅はかだったと思う。けれど、その頃俺は忙しくて、どうしても及川の様子を見に行ってやることが出来なかったのだ。

 その半年後、知らない名前の人から手紙が来たと思ったら、及川が死んだという知らせだった。及川は実に呆気なく死んだ。案の定、自殺だった。そして、その手紙には及川の葬式の連絡と、俺の腎臓移植のドナー適合者を海外で見つけたのでそちらで手術しろということ、渡航費や手術代など全ての経費を払ってくれること、手術の日時や詳細がつらつらと事務的に書かれていた。病院に通いつつ仕事を続けるのに忙しく、結局及川に会えないまま終わってしまった。

 及川の葬儀は家族葬だったが、家族と絶縁して、友人との連絡も経っていた及川の葬儀は俺以外に人は来なかった。葬儀会社の人と、及川の結婚相手の使用人であろう人々だけが、及川の葬儀に参列していた。喪主は今にも死にそうな老女が務めていた。及川の結婚相手を見るのは初めてだった。老女は俺を見ると、ほんの少しだけ頭を下げた。それは無礼な仕草ではなく、ただそうした小さな動きしかもう出来ないほどに年老いていることを感じさせるものだった。俺はその姿を見て、無性に悲しくなった。老女は泣いてはいなかったが、とても悲しそうに見えた。この葬儀で、及川の死を真に悼んでいるのは、俺とあの老女だけなのだろう。

 あの人はどうして及川と結婚したのだろうか。どうして及川の願いを聞いて、俺の手術のために八方手を尽くして得難いドナーを見つけてくれたのだろうか。俺と及川の関係をどこまで知っているのだろう。どんな思いで、及川の願いを聞き入れる気になったのだろう。どうして及川は、死を選んだのだろう。

 人こそいないが、金はかけたのだろう。豪勢な棺桶に、きれいなままの姿で及川は眠っていた。手首を切って自死したから、顔も体も全部綺麗で、まるで眠っているようだ、なんて陳腐なドラマみたいな形容がよく似合った。不思議と涙は出なかった。それでも、及川は本当に勝手な奴だと呆れや怒りに似た感情があった。

 俺は及川と付き合っていた頃、そういう我儘なところに大層辟易していて、それが原因でよく喧嘩したりもした。それと同時に、綺麗で豪華でギリシャ彫刻みたいな及川が、我儘で身勝手な振る舞いをすることに惹かれている俺自身も、認めざるを得なかったのだ。

「お前どうして……金持ちと結婚したなら長生きしろよ……」

 誰にも聞こえないような声で、俺は吐き出すように言った。それが及川にかけた最後の言葉だった。

 及川は相変わらずだった。死ぬ前も死んだ後も、綺麗で豪華でギリシャ彫刻みたいだった。そして我儘で身勝手で、俺の気持ちなんて少しも考慮してはくれないのだった。

 

 俺の手術は成功して、晴れて俺は長生きできることとなった。手術が終わって帰国してみると、及川の結婚相手のあの女性は死んでいた。聞くところによると様々な病気を併発していてそれなりの病名もあったが、医者が言うには老衰が一番近いらしい。寄る年波に人は勝てない。呆気ない幕引きだった。遺産がどうなったのかは知らない。しかし、老女の遺書には俺宛の頼みごとが書かれていた。それによると、老女の血筋の者が入っている由緒正しき墓には、老女の前夫が入っているし、親族の反対もあり及川を入れることが出来なかったそうだ。及川のために墓を作ったが、彼一人では寂しいだろうから、まだ先の長い話だが、俺が死んだらその墓に一緒に入ってやってほしい、ということだった。そしてもう一つ。生前、高名な肖像画家に頼んで及川の肖像画を描かせたが、彼女が死ねば一族から嫌われていた及川の肖像画は家の者がきっと捨ててしまうだろうから、いらないかもしれないがもらってやってほしい、だそうだ。墓の契約書など諸々の紙と共に、豪華な額に飾られた及川の肖像画が俺に渡された。

 そうして俺は、当初の約束通り、好きな仕事に精一杯打ち込んで、そして彼女も彼氏も作らず一人で暮らしている。これからもずっとそうだろう。そしていつか死んだら、及川のいる墓に入る。その日を心待ちにしながら、俺は毎晩寝室に飾った場違いな肖像画を見て、綺麗で豪華でギリシャ彫刻みたいな及川の、我儘だけれど俺を一心に愛してくれた姿を思い出すのだった。

 

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