I love you
Ich liebe dich
je t'aime
Ti amo
我爱你
白い紙の上に黒いインクで均一に印字された文字をなぞりながら、岩泉は口の中でひとつひとつ呟く。
「あいらぶゆぅ、いっひりーべでぃっひ、じゅてーむ、てぃあも、うぉーあいにー……」
授業中に教授がそう読み上げていたのをなんとなく思い出す。英語と中国語以外、岩泉にはどこの国の言葉なのかもわからない。ましてや、本当にこの発音で正しいのかもわからないし、語学には疎いので確認のしようもなかった。けれど、どれも昔どこかで聞いたことのある響きだった。
岩泉がそう言うと、どの言語でも「愛してる」は歌や本のタイトルになっている。だから聞いたことがあるのだ、と隣の席に座っていたバレー部の友人は言った。岩泉は何も答えなかった。何かを思い出しそうで、ずっと頭の中の記憶を辿っていた。
3限の講義で出された課題は、『「I love you」をあなたの一番愛している人に伝えると思って、あなたらしく訳して下さい』だった。
大学に入って3か月、岩泉の頭の中にはずっと及川徹がいた。だから、一番愛している人、というキーワードで浮かんだ相手が幼馴染で男の及川だったとしても、それはいつもそいつのことを考えていたからパッと浮かんだだけだ、と言えるかもしれない。でも、愛している人、という言葉で自分の深層心理が表れて及川を思い出したのだ、と言われればそうかもしれなかった。岩泉にはどちらか判断が付きかねた。
及川とは長い付き合いだ。友情よりも愛情よりも、もっとややこしい感情が絡まっているように思った。あの日東京駅で別れてから、もうずっと考え続けている及川と岩泉の現在の関係について、たった一言で表す言葉などこの世にはないのかもしれない。
昔は、こんな風ではなかった。高校の頃も、中学の頃も、小学生の頃も。こんなややこしい感情を持って彼を見ていただろうか。彼は自分をどう見ていただろうか。そして今は、どう見ているだろうか。
もし今、高校時代に戻れるなら、中学のあの頃に、小学生だった自分に戻れるなら、いやもうどの時点でもいい。離れ離れになる前の時間に時計を巻き戻せるなら、こんな複雑な感情を持たずにすむ選択肢を選びたい。
白い紙の上の文字をじっと見つめていると、記憶を辿る岩泉の目の前でその文字たちがバラバラになってぐるぐると回って動き出した。『love』という綴りが四散して意味を失くす。『愛』はひとり紙の隅に逃げる。それぞれの文字が四方八方に散って、白い紙の上は全くの混沌と化した。紙の上をてんでばらばらに好き勝手動く文字を見つめながら、岩泉の思考はなおも過去を巡る。目の前の文字が紙から逃げ出して机から落ちようと、岩泉の知ったことではなかった。
「はじめちゃん、アイラブユーって知ってる?」
バレーボールを両手で抱えた及川が、暗くなり始めた空の下を歩きながら隣を歩く岩泉の顔を覗き込む。成長途中の筋肉の少ない細くて小さい身体に、新しく買ったばかりの4号サイズのボールはまだ少し大き過ぎるように見えた。
「知ってる。愛してる、だろ」
「なーんだ、知ってるんだ」
つまんないの、と及川は言って地面に落ちていた潰れたコーラの缶をつま先で蹴る。カンカンカン、と小気味のいい音と共に転がりながら3度跳ねた空き缶は、岩泉の直線状、数メートル先で止まった。及川と岩泉は歩き続ける。
「はじめちゃんのボール、まだきれいだね」
「すぐお前のと同じようになる」
及川は手に持ったボールをくるくると両手で回して検分する。岩泉はこの間、とうとうバレーボールの4号球を両親に頼んで買ってもらった。及川がバレーの試合をテレビで見て、自分のボールを誕生日に買ってもらい、そしてすぐに一人でバレーをし始めて、それが岩泉にも影響して、先日岩泉がボールを買ってもらうまでに、実に一ヵ月ほどしかかからなかった。二人は魔法にかかったみたいにバレーボールの世界に魅了されていた。
ふたりして地域の小学生チームに入って、バレーの細かいルールを初めて知った。基礎練習のつまらなさに不機嫌になった。試合形式の練習では、意図したプレーが出来ずに時にチームメイトと喧嘩になることもあった。それでも、バレーボールが楽しかった。
「アイラブユー」
「おまえそれ、俺のこと好きだって言ってることになるぞ」
「ふぅん。べつにいいよ」
「いいよってなんだよ。おとこのくせにそんなだから、東小の奴らに女子みたいだって馬鹿にされるんだ」
岩泉は言ってからハッとして及川を見た。さっきまで機嫌よくにこにこと笑っていた及川の表情は、今日の練習の時の言い争いを思い出したのか笑みが消え、形の良い薄い唇はきゅっと引き結ばれていた。岩泉は取り繕うための言葉を探した。
「あんなの言う奴が悪いけど、おまえももっと男らしくなれよ。べつにそんな、女子みたいとか全然おれは思ってないけど」
ごにょごにょと歯切れの悪い言葉は終わりに近づくに連れて小さくなっていった。及川は小さく、うんと頷いて、岩泉にボールを差し出した。岩泉はそれを受け取ってカバンにしまう。そして空いた右手で及川の左手を握った。及川はぎゅっと岩泉の手を握り返した。そうして二人の帰り道が分かれる時まで繋いでいた。
「ジュテーム」
「は?」
「知らないの?」
「英語か?」
「ちがうよ、フランス語」
岩泉がどういう意味か聞こうとした時、それよりも早く及川がまた言った。
「イッヒリーベディッヒ」
「それは」
「ドイツ語」
「あっそ」
岩泉はどうでも良くなって会話をやめた。及川が脈絡無く思いついた言葉を思いついたその時に言うことはよくあることだったし、それに今はあまり会話をしたい気分ではなかった。それでも、二人の帰り道が分かれるまでまだ少し一緒に歩かなければならなかった。もう何年もこうして二人で帰っているので、話したくない時は無言でも平気だった。俺が答えなくても及川が勝手に話していることもあったが、黙っている俺に及川は怒らなかったし、無理やり返事を引き出そうともしなかった。岩泉にはそれが楽で、いつも及川と二人で帰った。
及川と岩泉の身長は、小学生の頃に比べて、いつのまにかほとんど同じになっていた。まだ数センチ岩泉のほうが高いが、中学に入って急速に身長の伸び出した及川は、体育の授業で背の順に並ぶと、後ろから数えた方が早いくらいまで成長していた。もう誰も及川を女の子みたいだとからかわなかったし、むしろその整った顔を女子が褒めそやすのが聞こえるようになっていた。女子に人気でスポーツができ、平均よりも背の高い及川は、男からも一目置かれだしたのだった。
「岩ちゃん」
「ティアモ」
「は?」
「これも愛してるだよ」
「彼女にでも言っとけ」
「おれ彼女いないよ、岩ちゃん知ってるでしょ」
三組の長谷川が、と言いかけて岩泉は口を閉じた。三組で一番かわいいと言われている長谷川が、及川のことをかっこいいと言っていた、と三組の友人から聞いたのを思い出したのだった。けれど、もしこれを言えば、及川は長谷川と付き合うかもしれない。どうして俺が恋のキューピッドになってやらなくてはいけないのだ、と岩泉は思って口を閉じたのだった。放っておいても、及川ならきっとそのうちかわいい彼女ができる。そうすればキスをしたり、童貞を一抜けしたりするんだろう。ムカつく話だ。ちょっと見たらあんなに女の子みたいで、いじわるを言われて泣きそうな顔をしていたのに。たった数年でこんなに変わるのか。自分も成長期が来たら、急速に背が伸びるだろうか。そうしたらきっと、元から背の高かった自分のほうが、及川よりもっともっと身長が高くなるだろう。そうなったときは、長谷川のことを教えてやってもいい。
「岩ちゃん、ウォーアイニー」
「あーそうかよ」
岩泉は、及川より10㎝以上背が高く、体もがっしりしてスポーツマンらしい筋肉隆々の自分を想像した。うん、悪くない。
「岩ちゃん、明日の化学の小テストできそう?」
「無理」
「岩ちゃん化学やばいんだから勉強しなよー。赤点取ったら補習あるよ?」
「それはもっと無理」
じゃあ勉強して、と及川は強い口調で言い募った。帰ったらする、たぶん、と心の中で返事をして、岩泉は歩みを進める。声に出して返事をしたら更にしつこく言われると思って何も言わなかった。けれど、何も言わない時は及川もそれ以上しつこく追及しなかった。岩泉は及川のそういうところが居心地良かった。
及川と岩泉は、小学生の頃からこうして学校の帰り、クラブチームの帰り、部活の帰りを共に歩いた。もういっそ鬱陶しいくらいに一緒にいるので、岩泉には及川がいないほうが面倒だった。何もかもわかっていて一緒にいられる相手がいるのは素晴らしいことだ、と高校生になった今、岩泉は思っていた。こんな相手を、世界中の誰もが持っているわけではない、と気付いた時から、その有難さを感じるようになった。昔はみんな、一人か二人はいつも一緒にいる腐れ縁の友達がいるものだと思っていたのだ。
隣を歩く及川は、明日の部活の練習内容が筋トレだったら腕立てがいい、雨なら野球部が体育館横の屋根の下で筋トレするからうるさくて嫌だ、とかそんなことを一人で勝手に話していて、そうして岩泉はそれに適当な相槌を打っていた。
そうして歩いているとふと思い出した。そう言えば、こないだテレビで言っていた。夏目漱石がI love youを月が綺麗ですね、と訳したと。
「アイラブユーってさぁ」
「え、なに」
「は?いや、こないだテレビで言ってたんだよ」
及川が急に大きな声で反応したので岩泉は少し面食らった。及川の不審そうな目つきに、なんだその視線は、と思いつつも、岩泉はテレビで見た話をかいつまんで説明する。
「なんだ、そんなことかぁ。岩ちゃんが急にアイラブユーとか言うから俺びっくりしちゃった。アイラブユーって、岩ちゃんには似合わないし、変だよ。もっと簡単な言葉のほうがいいよ~」
お馬鹿さんなんだから頭使おうとしちゃダメ、と語尾を伸ばして言って、及川は笑った。からからと笑う声が人通りの少ない住宅街に響いた。岩泉は、さすがに自分も脈絡が無かったし唐突過ぎたとは思ったが、及川のあの怪しい者を見るような目つきを思い出し、少し腹が立って言い返した。
「お前だって、昔はよくそんなこと言ってただろうが」
岩泉の言葉での反撃を予測していなかったのか、及川がぎくりとした。おかしそうに笑っていた顔が、一瞬だけ固まって、その後すぐにぐにゃりと歪んだ。岩泉には、その顔がとても苦しそうに見えた。
「言ってないよ」
なんとなくそれ以上続けられなくなって、岩泉は何も答えなかった。その後こっそり盗み見た及川の表情は、やっぱりなんとなく苦しそうに見えた。
白い紙の上を走り回った文字たちが、紙から飛び出し机から落ちていく。それをじっと見ていた岩泉は、びくっと体を震わせた。あまり急なことだったので、長い時間固まっていた体はうまく動かず、足が勢いよく跳ねただけに終わった。体の動きと一緒に意識がふっと浮上したような感覚があった。そうして机を見ると、白い紙の中で文字たちはきれいに整列していた。どうやら自分は眠っていたらしい。そして、眠っている時に見た夢は、夢と言うより過去の思い出だった。眠る直前に及川との昔の関係を思い出していたからだろうか。
夢の内容は、岩泉がいつの間にか忘れていた過去のある場面での自分たちだった。そう言えば、あんな会話をした覚えがある。でも、何十年間の付き合いの中のよくある一日として膨大な記憶の中で埋もれてしまっていたのだった。
及川は小学生の頃も、中学生の頃も、言葉を変えては岩泉に愛している、と伝えていた。そして高校生になって、岩泉の唐突な『I love you』という言葉に、驚いて、傷付いていた。
あの時はわからなかったけれど、今ならわかる。岩泉には、覚えのある感情と表情だった。大学に入って離れ離れになってから、及川を想う時に岩泉が感じる苦しさ。あれを、及川はあんなに小さいころから持っていたのか。隠していたのか。
いくらモテないと及川に散々からかわれていた岩泉でも、あの三つの記憶が繋がれば、それが意味するところはわかる。あの苦しそうな顔は、好きな相手への想いに押し潰されそうになった時の表情ではないだろうか。では、今自分が持っているこの感情もまた、及川への愛ではないだろうか。
そう自覚すると、岩泉はその結論に案外しっくりとハマる自分自身に驚いた。同性の、幼馴染の、しかもあの及川徹を好きだなんて、他人からしたらおかしいのかもしれない。でも自分には、その愛と言う言葉が一番近いような気がした。何もおかしいことなどない。自然な感情のように思えた。岩泉一の世界は、昔及川徹が下手くそに放り投げたバレーボールに出会った時から、ずっとバレー一色だった。及川徹の世界も、岩泉と同じバレー一色で、二人の世界は共有されてきた。お互いの世界にいつも相手の存在があった。だから、岩泉が及川を好きになることなんて、当たり前なのかもしれない。
そして、及川がずっと岩泉のことを好きだったとしても、それも当たり前の感情なのかもしれない。
及川徹は、俺のことを好きなのかもしれない。
及川への気持ちを自覚すると同時に、そんな希望に溢れた都合の良い妄想が、岩泉の脳内を駆け巡った。そして心の中で暴れまわって、岩泉にとり憑いていた。充電していたスマートフォンを手繰り寄せる。フリックして見慣れた名前を表示する。
『及川徹』
何度も何度もこうやって彼の名前をここに出しては、その手を引っ込めてきた。同じレベルでバレーが出来ない自分には資格がないような気がした。それでも忘れられなくて、何度も何度も考えた。
これが愛という感情なら、彼と一緒にいるために資格を手に入れればいい。及川徹と同じレベルでバレーが出来る自分になればいい。この四年間の大学生活で死に物狂いで追いついてやる。天才と呼ばれる牛島や後輩の影山、そいつらに一目置かれる秀才の及川徹、そんな奴らと肩を並べられるようになるのは、きっと生半可なことではない。けれど、絶対に無理だなんて、誰に言うことが出来る。岩泉はやると決めたらやる男だ。もっとうまくなりたい、強くなりたい、という一心で大学でも競技としてのバレーを続けることを選んだのだから、目標は高いほうがいい。もちろん、ただの目標では終わらせない。四年後は必ず、自分も及川と一緒にバレーをする。同じレベルで、同じ世界を見る。
岩泉の大切な人への『I love you』は、電話やメールで伝えられないほどに、一緒に過ごした歳月の分だけ深く積み重なった感情だった。口に出すと、どんな愛の言葉も当てはまらないような気がした。文字になると、どれも陳腐で着飾っていて、嘘みたいに見えた。自分には『I love you』も『愛してる』も『月が綺麗ですね』も、どれも似合わない。大人でも子どもでないし、なんでもこなせるかっこいい男でもなかった。好きだなんて言葉も、気恥ずかしくて言えなかった。
けれど、また及川と一緒に同じレベルでバレーが出来るようになったら、この想いを伝えたい。今はまだ出来なくても、必ず伝える。ずっとライバルだった。ずっと親友だった。ずっと一緒にバレーをしてきた。きっと愛よりも深くて、複雑な感情だ。
及川は岩泉をどう思っているだろうか。まだ好いていてくれるだろうか。もう気持ちは離れてしまっただろうか。もう恋愛感情として好きではなかったとしても、自分がバレーに対しての情熱を忘れず、彼と肩を並べることを目標にしていることさえ伝えていれば、四年後まだ岩泉にチャンスはある気がした。自分の情熱を、まだ高校の頃と変わらない熱い気持ちが残っていることを、彼に知っていてもらわなければ。
ディスプレイに表示された名前は、もうずっと見てきて慣れ親しんだ3つの整った漢字だった。『及川徹』の文字が、明るい液晶画面の中から岩泉を呼んでいた。これをタップすれば、簡単に及川に繋がるのだ。ずっと悩んでかけられずにいたが、言うことが決まれば気持ちは軽くなった気がした。久しぶりの連絡に、及川は驚くだろうか。どうなったっていい。うじうじ悩むようなのは性に合わない。そう決心すると、岩泉は『及川徹』という名前をタップした。画面が光って呼び出し音が鳴る。
3限の講義で出された課題は、『「I love you」をあなたの一番愛している人に伝えると思って、あなたらしく訳して下さい』だった。けれど、『I love you』を伝えるにはまだ早い。岩泉にとって『I love you』の代わりなる言葉は、自身のバレーに対する所信表明だ。
なぁ、及川。
おれとお前の間にある溝は もう埋まらないほどの深さだと思うか?
俺はまだ諦めたくない。
お前は才能があるけど、天才じゃなかった。
そのお前が必死に天才たちに縋り付いてんだ。
俺だって、まだお前たちに追い付ける可能性はあると思うんだ。
俺たちの10年越しのバレーは、納得いく形で終わらなかったよな。
俺はまだ、お前と肩を並べてバレーをするつもりだ。
おまえがあげたトスを、俺が決める。
お前の最高のトスにぴったり合わせられるのは、俺しかいないって、胸を張って言えるようになるから。
必ず、そうなるから。
待ってろ。すぐに追いつく。