岩ちゃん俺ね、と及川は言った。部活帰り、皆と別れて二人で家路を辿っている時のことだった。夕陽は西に傾いて、及川も岩泉も、電柱もコンクリートの隙間から生える雑草も、全部濃いオレンジの色に染めていた。暑くてじんわりと背中に汗をかくような日だった。
「岩ちゃん、俺ね、小さい頃、家できゅうり育ててたんだ」
「あー、あったな、そんなの」
「うん、それでね、俺すごい楽しみにしてたんだ、きゅうりがなるの。だから、岩ちゃんと遊んだあと、家に帰ってきたらいつもきゅうりのこと見てたの」
「うん」
「でね、その時は夏で、蚊がいっぱいいて、きゅうりの近くにもたくさん飛んでたんだよ。俺ね、蚊をやっつけないときゅうりがやられちゃう!って思って……」
「なんだそりゃ」
岩泉はどういう理屈だよ、と笑いながら茶々を入れた。及川は、まだ小さかったんだよ、俺、と少し照れくさそうに笑った。
「まだ小学校の低学年の頃で、なんだかよくわからない理屈があったんだよ、たぶん」
「あー、そう」
岩泉がこれ以上何か言う前に、及川は「でね」と半ば語尾をかぶせながら強引に話を続けた。
「俺、きゅうりの大きな葉っぱに、蚊が寄って行くの見て、蚊を殺さないとって思って、叩いたの」
「うん」
「そしたら、蚊は叩けたんだけど、一緒にきゅうりの葉っぱも両手に挟んでしまってて……」
「意味ねーじゃん!」
むしろきゅうりには迷惑な話だろ、と岩泉は笑った。及川も笑って言った。
「そうなんだよ!しかも、きゅうりの葉って、葉の表面に短い毛みたいなのはえてて、それが結構痛くて、俺おもいっきり蚊を叩いたからすんごく痛かったの!」
泣いたよね、あの時は、と及川がしみじみと芝居がかった口調で言ったので、岩泉も吹き出して
「なんだよ、その話」
と、ポケットに手を突っ込んだまま上を向いて笑った。もうあと少し、この先の公園を過ぎたら、二人は別れて自分の家の方向に向かう。及川は続け言った。
「小さいころの俺かわいいよね、って話」
「は、どこが」
「かわいいでしょー、変な失敗とかして……」
「子どもはかわいい、クソ川はかわいくない」
なにそれひどーい!と及川は大仰に怒って、それから「でも岩ちゃん、小さいころ俺のことかわいいってよく言ってくれてたじゃん」と、にやにや笑いながら岩泉の顔を覗き込んだ。岩泉は顔を逸らせ、小さな声で「妄想乙」と言った。及川は笑った。それから、じゃあね、また明日ね、と手を振った。朝練遅れんなよ、と岩泉も手を挙げた。
及川は岩泉の赤い顔を思い出して、転がっていた小さな石を靴のつま先で思いっきり蹴っ飛ばした。少し胸がドキドキした。自分と同じ気持ちをあの幼馴染が持っているかもしれない、と想像して、すぐぶんぶんと頭を振った。期待はしたくなかった。幼馴染で、親友で、一番近い距離にいる他人という今の関係が心地よくて、明日も明後日も、今日のように一緒に帰れることが幸せだった。
岩泉は家の門扉を開けながら、初めて会った時、及川のことを女だと思っていたことを思い出していた。それが初恋だったし、今もその初恋は続いていた。自分は不器用だから、ずっとこうして片思いを続けるのだろう、と諦観していた。自分たちがいつか大人になって離れ離れになっても、俺はあいつが一生好きなんだ、と岩泉は知っていた。