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 夏場の練習は嫌いだった。暑いし、汗をかくと臭いしTシャツが張り付く。そしてなにより普段より体力を消耗する。バレーは好きだし、思った通りのサーブが打てた時やいいスパイクが打てた時の高揚感は他の何よりも代えがたい。だから、体育館にエアコンが完備されればもう一言だって文句を言わずに練習するのに、と国見は嘆息した。身体の汗を拭ってロッカーからシャツを取り出して腕を通す。夏バテかもしれない。もしくは熱中症か。ここ最近毎日そんなことを思うが、家に帰ってクーラーの効いた部屋に十分もいればぴんぴんしてくるので唯の自分の我儘である。

 疲れてうまく手が動かせないせいで、着替えるだけなのにだいぶ時間がかかってしまっていた。金田一は「お前バスで寝んなよ」という言葉を残して先に帰って行った。昨日はのろのろと着替える国見の横に最後まで付いていてくれたので、きっと今日は用事でもあるのだろう。

 ぶはっと、吹き出すような笑いが聞こえ、ふと顔をあげると、花巻と及川がこちらを見て笑っていた。どうやら他の皆はもう帰ったらしい。ぼーっとしていて聞いていなかったが、どうやら二人が国見に話しかけていたのを無視してしまっていたらしい。及川は部室の隅に置かれた椅子に座って「国見ちゃん着替えながら寝れんの」と腹を抱えて笑っている。国見はひたすら面倒で、「はぁ」と気の無い返事をしてまたシャツのボタンと格闘し始める。ふと手元に影が差して、顔を上げると目の前に花巻がいた。ニヤニヤ笑うその人に構われたくはなかった。だから無言でまた視線をシャツのボタンに落とした。

「こらこら国見、本気チューしちゃうぞ」

 突拍子も無いその言葉に、国見は思わず顔を上げて眉根をぴくりと動かしたが、口元を引き攣らせながらもいつものポーカーフェイスを保った。隣では及川が盛大に吹き出し、「やばいマッキーそれめっちゃ似合うもっと」などと煽って大笑いしているので、この冗談がおもしろくない自分はおかしいのだろうかと眉間に皺を寄せる。

「なんか言ってよ国見ぃ」

 俺が滑ったみたいになるでしょ、と付け足して花巻はいつものような食えない笑みを浮かべた。国見はこの笑顔が嫌いだった。一度そうはっきり本人に言ったことがある。しかし、当の花巻は国見のそんな挑発も受け流して「嫌よ嫌よも好きのうちだよなぁ」と笑っていた。その時近くにいた松川に「俺は花巻のこういう笑い方好きだけどなぁ」と言われて、意図せず人の好きなものを否定してしまうことになってしまった国見はいたたまれなくなって黙り込んだのだった。

 一枚も二枚も上手の先輩に、何か言えば墓穴を掘ることになりそうで唇をきゅっと引き結んで無言の抵抗を試みる。早くこの人が俺に飽きてくれますように。もっと反応のおもしろい、愛想の良くて人懐っこい後輩を可愛がって、俺のことなんか見向きもしなくなりますように。

 国見は花巻と話す度に心の中で同じことを祈った。神様は信じていないので、叶うとも思えなかったが、人はどうしようも無い時、人間以上の存在に頼ってしまうものだから、と国見は都合のいい時だけ神に縋る自分を心の中で弁解した。

「国見ちゃん知らないの?少女漫画の映画化したやつ。マッキーの言ったセリフそれだよ」

 知りません、と答えた国見に、及川は笑って詳細を教えた。国見は全部聞いて、そうですか、と答えた。内容がわかっても、花巻の冗談は国見には少しもおもしろくなかった。むしろ嫌悪するような類の冗談だった。そもそも、国見はからかわれるのが嫌いだ。けれど、花巻が相手の時には、他の人にされた時のように冷たく拒絶することも言い返すことも出来なかった。そんな国見の反応を見て、花巻はまた嫌な笑みを浮かべた。そういう態度がまた国見を怒らせた。最近は、花巻のその態度が、国見を怒らせるとわかっていてしているように思えるまでになっていた。

「国見、怒んないでよ」

「怒ってませんけど」

 国見は出来るだけ感情を押し殺した声で言葉少なに返した。怒っていたし、やめてほしかった。そんな風に自分をしつこくからかってくる人間は初めてだった。国見の口調があまりにも冷たかったのか、隣でロッカーをばたんと閉めた及川が噴出した。

「国見ちゃん、マッキーを怒んないでやってね。これでも国見ちゃんかわいいかわいいって表現なんだよ、マッキーなりのねぇ」

「こらこら及川、ネタバレはよして」

 及川と花巻は本気とも冗談ともつかない芝居がかった口調で話す。だから国見には何が本音かわからなかった。及川は、

「じゃあ俺先帰るね。マッキー、国見ちゃんの承諾無しに本気チューしたらダメだよー」

 と言って笑いながら出て行った。立てつけの悪い部室の扉を閉める大きな音がして、後には国見と花巻だけが残された。

 国見は一つ決心をして、花巻に向き直った。国見と花巻の年齢は二つ違って、国見はまだ成長期で、花巻はもうそろそろ成長期も終わろうとしていた。二人の身長差はほとんどなかった。花巻は何も言わずに黙って国見の顔を見つめていた。いつもこうやって、笑ったりせずに黙って俺を見つめていたら、この人はどんなに魅力的だろうか、と心の中で考える。

「花巻さん」

「なに」

「俺はあんまり」

 国見が本題を切りだそうとした時、堪えていた笑いが漏れるように、花巻の口元がぴくりと動いて、そして抑えきれずに横に引き上がった。小さいころに見た、不思議の国のアリスに出て来る赤くておかしな猫を彷彿とさせるいじわるで不可思議な笑みだった。

 そうやって花巻が笑った途端、国見は急に何も言う気が起きなくなって口を閉ざした。

「ごめん、笑わないから言ってよ」

「はぁ、忘れました」

「なに、国見もう痴呆はじまったの?俺と本気チューするかどうかって話デショ」

 そんな話はしていないし、痴呆じゃなくて気分を害したから言わないという無言の抵抗なのに、全部わかっていてからかってくる花巻が、やっぱり国見は嫌いだった。

「本気チューはしない」

 国見は苛々して今日初めてその感情を表情と口調に乗せて発露させた。キッと目を吊り上げて、顎を引いてほとんど同じ視線の花巻を下から睨みつけた。

「やばい、国見の口からチューって単語頂いちゃったよ!ラッキー」

 花巻はまたあの嫌らしい笑いを浮かべて、右手でバタンと自分のロッカーを閉めた。足元のエナメルバッグを肩にかけて、くるりと踵を返す。

「じゃあ最後鍵よろしくー」

 すっかり鍵のことなど失念していた国見が何か言う間もなく、花巻はさっさと部室を後にした。一人残された国見は彼のニヤニヤ笑いと明日の早起きを思って、堪えきれず悪態を吐いた。

 

 

 

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