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 いつも他人の腹の内を暴いてはご満悦の及川さんにも、実は優しいところがある。

 俺がそれに気付いたのは、彼と知り合って一年以上経ってからだった。

 

「ふぅん、まぁね。何言われても好きな気持ちは変わらないしね。けど、何かのきっかけで急に吹っ切れたりするし」

「どうやったら吹っ切れます?」

「えー。一番多いのは新しい恋じゃないの?月並みだけど」

「出会いないっすよ……」

 俺ががっくり肩を落としたのを見て、及川さんはへらへらと楽しそうに笑った。笑う時は大きな目が細くなって、やわらかく弧を描く。そういう時は、本心から笑っているのかな、と思う。

「身近な相手でいいじゃん!新しい出会いなんか無くてもさぁ」

「俺の身近な存在って男バレくらいっすもん」

 なにそれかわいそう!と言って及川さんはまた楽しそうに笑う。俺の不幸が楽しいんじゃなくて、たぶん後輩の俺が及川さんを頼って悩み事を相談したのが嬉しいんだと、そんな気持ちが伝わるような優しい笑い方だった。

「じゃあもう男バレで探しなよ!年上も年下もそろってるよ!」

 金田一とか素直だしスレてないしオススメだよ、と自分で言っておきながら想像しておかしくなったのか、及川さんはお腹を抱えて笑いだす。俺にも失礼だし、金田一にも失礼である。

「俺より背高い彼女とか勘弁して下さいよ……」

 体を折り曲げお腹を押さえて笑う及川さんは、長い足で俺の座る椅子をこん、と軽く蹴る。

「おい!金田一舐めんな!あいつはあれが可愛いの!」

「どうせ付き合うなら俺は国見みたいなサブカルっぽい子がいいです~」

 俺は半ば自棄になってきて机に突っ伏すると、思いの外冷たい感触が頬の熱をゆっくりと奪っていくのが気持ち良くて、内心、おおと感嘆する。さっきまで目頭を熱くしていた俺の顔から、だんだんと奪われていく熱が、悲しみごと消してくれるような優しい冷たさだった。

「あー、矢巾の恋愛がうまくいかない理由が今わかったよ。国見ちゃんみたいなのは難しいからね、お前にはまだ早い。金田一とか岩ちゃんとか単純なのにしときなさい」

「えー。そういう我儘っぽいとこがいいっていうか……」

「だめだめ!お前なんて女心全然わかってなくてデートの度に彼女イラつかせてそうな奴は単純な子か、そういうの笑って許してくれる大人な子にしときなさい」

「俺デートの度にサエちゃんイラつかせてたんすか……」

 サエちゃんは、三か月ほど前に、俺にこう言った。

 矢巾くんって、バレー部なんだね。こないだ見たよ、練習試合。かっこいいね。

 俺はその一言で見事にノックアウトされ、もう翌日からはサエちゃんの姿ばかり目で追っていた。そして二か月ほど前、サエちゃんは俺にこう言った。

 矢巾くん、私たちさ、一緒に帰ったり、二人で会ったりするよね。これってさ、どういう関係になるの?

 俺はその時のサエちゃんの上目遣いと赤い頬に、この子はなんて純情な子なんだろうと思ったのだ。俺は勇気を出して、男らしく気持ちを告げた。そして俺たちは晴れて恋人同士になったのだった。

 そうして三週間ほど前、サエちゃんは目を赤くして、涙声で言った。

 秀くん、私たちあんまり合わないと思う。一緒にいても寂しく感じるの。離れてたら、もっと悲しい。もう限界なの。別れたい。

 いつもニコニコして可愛らしく頬を染めたりしていたサエちゃんの突然の変貌に、俺は頭が真っ白になって、何が何だかわからないままにいつの間にか別れていた。そして気が付けば駅前のマックで一人マックシェイクを啜っていたという悲しい話である。

 そして俺は、嵐のように突然現れて去って行ったサエちゃんのことを、未だに忘れられずにメソメソしたりしているのだった。我ながらとても女々しい男だ。かっこ悪すぎて、クラスの友人やバレー部の皆にもフラれちゃったぜーなんてへらへら笑って、本音は一切言えなかった。そうして、今日、フラストレーションが限界に達した俺は、皆が帰った部室で一人グスグスと涙を流していたのだが、ちょうど監督との話し合いを終えて一人遅れて帰ってきた 及川さんに、その姿を見咎められて今に至るのであった。

「まぁ彼女なりに不満があったから別れるって言いだしたんだろうし、けどそれが全部矢巾のせいってわけじゃないだろうし、本当にただ、うまくいかなかっただけだって。タイミングとかもあるし。もう泣くんじゃないよ」

 俺が机に突っ伏して顔を上げないのを、泣きだす予兆と思ったのか、及川さんがぎょっとして言葉を付けたした。恐る恐ると言った感じに俺の顔を覗き込む姿がおもしろくて、俺は思わず吹き出してしまう。

「なーにー?人が心配してるのにご機嫌だねぇ。それならもう元気になったんデショ。さっさと片付けて帰るよ!」

 及川さんの口調は、言葉に反して優しくて、俺が元気になったのが嬉しいという気持ちが溢れているようだった。俺は「はーい」と一つ返事をして、エナメルバッグにジャージを突っ込む。二年生は二年生同士、三年生は三年生同士でいつの間にか固まってしまうから、実は及川さんと二人で帰るのは初めてで、二人っきりなら普段聞けない及川さんの本音とか昔話とかを聞けたりするんだろうか、と俺は少しドキドキした。

 俺はたぶん、及川さんが話を聞いてくれただけで、もうサエちゃんなんてどうだってよくて、こういう先輩後輩の関係があることを、すごく嬉しく思っているのだろう。

 外はもう陽が沈み始めていて、夕焼けが俺と及川さんの影を長く引き伸ばした。人気もまばらな校舎の横を抜けて駅までの道を二人で歩いた。及川さんはお腹が空いたから着いて来いと半ば強制的に俺を引っ張って入ったコンビニで、俺に肉まんを奢ってくれた。

 店の外で突っ立って二人で熱々の肉まんをはふはふと息を吹きながら食べた。太陽はもうすぐ向こうの青葉山に隠れてしまうだろう。

 俺は食べながら及川さんの初恋についてウンウン頷きながら聞いた。その話の結末は思春期の男女によくある悲劇で終わったけれど、及川さんみたいなモテる人でもこんな失敗をするのか、と俺は逆に感心してしまって少し怒られた。

 駅に着いて改札をくぐったら俺と及川さんは反対の電車に乗るので別々のホームに向かう。向かいのホームにいる及川さんは、俺と目が合うとその大きな目をスッと細めて、人差し指を唇の前に持って行って、内緒だというジェスチャーをして笑った。俺がそれに何か反応するより前に、音質の悪いアナウンスが流れて、及川さんのいるホームに電車がやってきた。及川さんの姿はやってきた大きな鉄の箱に隠れてしまって、俺はなんとなく窓から及川さんの姿が見えるんじゃないかと探した。仙台駅は帰宅ラッシュで、車内には人が多くて及川さんは見つからなかった。

 後日、俺が岩泉さんにそれとなく聞いた話では、及川さんの初恋はそんな悲惨な結末は迎えなかったらしい。なるほど、と思った俺は、それから誰にもこの思い出を話していない。俺と及川さんの、二人の秘密だからだ。

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