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 大学図書館の二階の自習スペースの隅。大きな窓のすぐそばの席は、眺めはいいけれど窓越しに伝わる寒さが体の左半分をゆっくりと着実に冷やしていく。及川は目の前のパソコンにも、机に無造作に広げた資料の山にも、既に興味を失っていた。課題と向き合って数時間、とっくに集中力は切れてしまっている。大きな窓から見えるのは、図書館の脇を通る坂道で、アスファルトで舗装された道沿いには百日紅の木が等間隔に立ち並んでいた。夏には紅い花を満開に咲かせて枝をしならせていた百日紅も、既に冬の寒さにやられて大半が葉を落とし、芝の生えた緩い斜面の上は赤や茶色の落ち葉で彩られていた。空を見れば、視界いっぱいに垂れこめた分厚い雲が、強風に煽られて凄い速さで押し流されていくのが見えた。

 今日は数十年に一度の大荒れの天気だ、と昨夜からニュースではひっきりなしに騒がれ、美人のお天気お姉さんが深刻な表情で警鐘を鳴らしたとおり、今朝は家の中にいても轟々と吹きすさぶ風の音がよく聞こえていた。こんな日にわざわざ学校に出向くのは好き者くらいだ。けれど及川は今日もいつもの通り朝早くから学校に来ていた。

 大学の四年間は、自分にとって最後のチャンスだと思っていた。ここで結果を出すことができればその後もバレーを続けることができるだろうが、もしここでだめなら、もうバレーとは道を分かつことになるだろう。そう思って日々を過ごしていた。だから授業があろうがなかろうが、朝練をして、時間があれば体育館の隣のトレーニングルームを使って筋トレをし、午後の全体練習に臨んだ。それを四年間。誰がどう見てもストイックだったと思う。でも、自分と同じくらい、いやそれ以上にストイックにバレーに向き合っている幼馴染がそばにいたから続けられたことだった。四年生の冬、卒業を間近に控えて、部活は引退したが、朝の自主練は止めなかった。暇を見つけては筋トレをするし、夕方の練習にも後輩たちに迷惑にならない程度には顔を出していた。体力が落ちたり、感覚を鈍らせるわけにはいかなかったからだ。

 轟々と音を立てて建物の間を通り抜けていく風は、図書館横の斜面に生えた百日紅の細かく分かれた枝をいとも簡単にしならせた。及川の腕より一回りばかり太い幹が、地上から一メートルほどのところで四つに分かれて、更にその二、三メートル上で細かく枝分かれして広がっていた。普段はまっすぐ天に向かって伸びる枝が、不穏な風の音を効果音にして、強風に煽られてまるで紙で出来ているかのように大きくしなっていた。あまりお目にかかることの出来ない不思議な光景に、及川はなんとはなしにその様を見ていた。

 授業時間中だということと、今日が水曜日でほとんどの生徒が午前中しか授業がないということも相まって、構内には人の姿が少なかった。更にこの強風では、午前の二時間だけの授業を自主休講にしてしまった者も多いのだろう。図書館脇の細い坂道は、図書館の裏手に向かって上って行くと、生徒用の駐輪場に繋がっていた。しかし坂道を上らなければ行けない上に、駅から遠いという理由でその駐輪場を利用する者はほとんどがバイクで通学する生徒だけだった。それゆえ普段から人通りの少ないこの道には、今日は普段以上に人の気配がなかった。こんな風の中で坂道を下りるなんて、転んだらおもしろいことになりそうだ、と想像して少し笑う。子猫くらいならころころ転がって行きそうだなと想像して、すぐに子猫が可哀想になって頭を振るう。そして次に目を向けたとき、緩い坂道を下ってくる人の姿があった。黒い厚手のダウンを着て、風に煽られて自然とフードをかぶる形になっている男は、ジーンズにスニーカーというラフな格好で、ボディバッグを背負っていた。顔は見えないけれど、その見慣れた服とシルエットに、及川は身を乗り出して窺う。男はこちらに目を向けることなく上着のポケットに手を突っ込んで緩い坂道を下って行く。その時、風が轟音と共に真正面から吹きつけ、男のかぶっていたフードが吹き飛んだ。

 少し離れたここからでも、男の短い黒い髪がワックスやスタイリングなどという言葉からは無縁そうなのが見て取れた。男は顔の前に手をやって、風を避けるように顔をこちらに向けた。瞬間、窓越しに及川と男の視線がぶつかる。及川は思ったとおりの人物の顔を認めて、にやりと笑った。男は一瞬目を見開いて、そして少し口の端を上げ、また坂道を下って行った。

 もうすぐお昼時だ。今日みたいな日はきっと食堂もすいているだろう。一緒に昼飯を共にする相手を見つけて、及川の気分が上がる。彼がここまでやってくるまでの間に、この資料だけでもまとめてしまおうと、長い時間放置されスリープ状態になっていたパソコンに向かった。

 

「ねぇねぇ何で今日は来るの遅かったの?」

「……こんな風強えのにバイク乗ったら危ないだろ」

「バイクで来たじゃん。寝坊したんだ?」

 ニヤニヤ笑って顔を覗き込むと、うるせぇ、と一発頭を叩かれる。避けることもできたが、どうせ痛くないように力加減をしてくれているのだからと食らっておく。食堂には案の定人が少なく、窓際の席を陣取って岩泉と向かい合って箸を持った。窓の外では相変わらず風が吹きすさび、葉を落とした木々が今にも折れそうなほどに枝をしならせていた。でも岩泉が来たから、及川はもうそんなものには目もくれずににこにこ笑っている。

「ねぇ帰りは後ろ乗せてよ」

「こんな風強いのに無理だべや」

「えー、大丈夫だって。帰る頃には風も止んでるから」

 あっけらかんと言い放つ及川に岩泉が眉を寄せて怪訝な顔をする。そうすると鋭い瞳が更につりあがって虎みたいで、そういう顔が及川はとても好きだった。

「んなこと天気予報言ってたか?」

「言ってないよ」

「お前適当しか言わねーな」

 岩泉はあからさまに溜め息を吐いて、更に山盛りに乗せた唐揚げを箸で摘まんで口に持っていく。

「適当じゃないよ~。絶対止むって。及川さんにはわかる」

「出た宇宙人」

「ピコピコピコ~!」

 ふざけて天に向かって指を立ててくるくる回すと、岩泉も「宇宙と交信すんな」とつられて笑う。そうしてすぐ近くの女子学生がこちらを見て笑っているのに気付いて、慌てて「うぜぇ」と怒ったような声を出す。でも岩泉は怒ったフリが下手で、及川はいつもすぐに嘘だとわかる。嘘の下手な岩泉が好きだった。笑う及川に、岩泉は照れ隠しのように「ばぁか」と言って、口いっぱいに唐揚げを詰め込んだ。ハムスターみたいだな、と思って及川はまた笑った。

 食事を終えて食堂のガラスのドアを開けると同時に轟音と共に風が吹き抜けて、二人は思わず立ち止まって体を寄せた。目の前の木がガサガサ鳴って、どこからともなく飛んできたビニール袋が二人を追い越して行った。

「ねぇ後ろ乗せてね」

 岩泉がもう一度歩き出す前に、及川はすぐ傍の岩泉の耳にこそりと呟く。周りから見たら、風が強くて身を寄せ合っているように見えるだろうな、と思う。

「風止んでたらな」

 耳に息がかかるほどの距離に、及川の明確な意図を察して、岩泉は眉を寄せる。人前でイチャイチャすんな、の意味だろうが、及川はそれをわかっていて笑って受け流す。本気で嫌ならもっと怒るし、そもそもそんなことをさせる隙を与えないだろう。岩泉はああ見えて他人と自分の身内をしっかり分けている人間だ。身内には甘く、たいていのことは許すし、及川なら尚更だった。

「止むよ! こういうのだいたい止むじゃん」

 及川はまたあっけらかんと言い放って、怪訝な顔をするであろう岩泉を見越して笑う。わざとこういうことを言って、誰かを笑わせたり、呆れさせたり、怒らせたり、不安にさせたり、とにかく何かの反応をもらうのが好きだった。だから当たるも当たらないも関係無く、こういう惑わすような口調をすることに意味があった。それに、こうやって変なことを言って岩泉に反応してもらうのが特別好きだった。

「何の根拠だよ」

「ん~、二十二年生きてきた経験則?」

「俺も二十二年生きてきてるしなんなら俺のが一ヵ月くらい誕生日早いからな」

「うへへ」

「うへへじゃねーよ」

 岩泉が及川の頭を軽く小突いたのと同時に、また強い風が通り抜けて、二人は思わず体を寄せて顔を見合わせて笑い合った。

 

 

「うわ、マジかよ」

 外に出ると同時に岩泉は思わず声を上げた。陽の暮れかかった空には、まだ厚い雲が垂れ込めていたが、雲の隙間から覗く空を夕焼けが真っ赤に染めている。天気が良くなるのと同時に、風ももうほとんど止んでいた。

「ね、言ったでしょ?」

「お前マジで気持ち悪いぞ」

 満面の笑顔を向ける及川を胡散臭そうに眺めて岩泉は手で追い払う仕草をする。

「しっつれいな!」

 後ろ乗せてもらうからね、とひとり早足で駐輪場へと向かおうとする岩泉の背を及川は慌てて追いかけた。

 図書館の横の駐輪場へと続く坂道を二人並んで歩く。舗装された道の脇にはきれいに整えられた芝があったが、強風でたくさんの落ち葉や細い枝が散乱していた。可哀想なほど体を折り曲げて風に耐えていた百日紅の木は、今はもう強風に煽られていたのが嘘のように真っ直ぐと空に向かって伸びていた。

嵐の後の夕焼けはいつもよりずっと赤くて、分厚い黒い雲の間から覗く空は不気味なほどにきれいだった。つま先に目を落とすと、アスファルトの上に細く枝分かれした百日紅の枝が一本転がっていた。たまに吹く弱い風に煽られて、細い棒はころころと向きを変える。及川はなんとなくそれを拾って、岩泉のわき腹を突く。

「よし、歩いて帰れ」

「待って! ごめんて!」

 ちょっと魔が差しただけなの、という弁解を無視して岩泉は大きな歩幅でどんどん坂道を上って行く。ダウンのポケットに両手を突っ込んで、顎を引いて襟元に顔を埋める岩泉の目元が細く弧を描いて笑っていたから、及川も笑って追いかける。

「お前はそうやってすぐ魔が差す」

「もう二度としません」

「お前の二度としないは少なくとも五回はするって意味だ」

「岩ちゃんに誓ってしません」

「じゃあ破ったら岩ちゃん禁止な」

「やだぁ~」

 ポケットに突っ込まれた岩泉の腕をぐいぐい引っ張ると、お前力強い、と冷静に諭されて慌てて加減する。

「岩ちゃん抜きは体に良くない」

 後ろを振り返って誰もいないことを確認すると、岩泉の腕に自分の腕を絡ませて体を寄せ合って歩く。

「お前セックス大好きだもんなー」

「ちょっと」

 岩泉のからかいを含んだ言葉に、思わず笑ってしまう。岩泉はたまにこういう冗談を言う。友人の前では女の子の胸がどうとか尻がどうとかすら、自分からあえて言うことを好まない癖に、及川と二人になるとこうやって直球で冗談を言ってにやにやと笑う。そういうところは絶対むっつりスケベだと思うけれど、一度そう言ったら「お前と二人の時はお前より俺のがエロいこと言うから、俺はオープンスケベだ」と胸を張って主張されて以来、言い返す言葉が思いつかなくて指摘するのをやめた。

「岩ちゃんのバイクはっけーん!」

「かっけーだろ」

 普段はもう少し混んでいる駐輪場も、今日は閑散としていた。岩泉のネイキッドタイプのバイクは、彼に似て硬派な感じが良いと及川も思っていた。

ジーンズのポケットからバイクのキーを取り出した岩泉が、人差し指にキーチェーンを引っかけてくるくる回す。その指の動きが夜のことを思い起こさせて、及川は思わず目を逸らした。

「ほら、これいるべや」

 さみぃから、と言って渡されたのは、シートの下に入れっぱなしになっている防寒兼雨用のコートだった。バイクに乗ると、歩いたり自転車に乗っている時の遥かに数倍は寒くて、後ろに乗せてもらう時、及川はいつもこのコートを着る。

「てか今日絶対いつもの数倍寒いよ~」

「お前まだマシだろうが、俺が風よけになるし」

コートに腕を通しながら及川はぼやいた。大学で東京に出てきて、こちらの冬の生温さには笑ってしまったが、数年経つとそれが当たり前になってしまって、たまに正月に帰省すると宮城の寒さを我慢できなくなっていた。

「岩ちゃんのフルフェイスかっけぇ」

 コートのボタンを下まできっちり留めてから、及川はシート下のボックスに入っているヘルメットを取り出す。岩泉が着用しているフルフェイスのヘルメットと違って、及川のほうはハーフタイプの顎紐付きのヘルメットだ。

「おら、顔上げろ」

及川がヘルメットの紐を悴んだ手でうまく止められないのを見兼ねて、黒いフルフェイスを被った岩泉が手を伸ばす。手でぐい、と乱暴に顎を押し上げヘルメットのボタンをカチ、と留めた後、岩泉は剥き出しになった及川の白い首を指でそっとなぞってすぐに何事もなかったかのようにバイクに跨った。くすぐったくて笑いながら「ありがとう」と礼を述べて岩泉の後ろに及川も座る。

岩泉のバイクはネイキッドなので、風よけになるような部品が無く走行中は風をまともに受けて走ることになる。冬場は特に厳しいので、もう少しして寒さが本格的になれば春までアパートの駐輪場で眠ってもらうことになるだろう。

「車欲しいねー」

「バイクのが良いべ」

 岩泉がキーを回すと、地鳴りのような低い音と共にエンジンがかかる。及川は岩泉の腰を掴んで、鼻を啜った。あぁ、今からあの冷たい風に身を晒すのか、と思い、及川は岩泉の広い背中に頭を寄せた。

 大学の裏手のこの駐輪場から、大通りに出るには、大学の周囲をぐるっと回る細い私道を通る。大学敷地内にあたるこの道にもやはり人影はなく、岩泉は大きな音を立ててバイクのエンジンを吹かすと、ゆっくりとスピードに乗っていく。

「岩ちゃんさむーい」

「我慢しろ」

「え? なーにー?」

 風の音とヘルメットで岩泉の声は及川にうまく届かない。それをわかっていて及川は岩泉をからかいたかった。

「俺のが寒いから我慢しろっつったんだよ!」

「なにー? 抱きしめてくれるってー?」

「ウザ川!」

「やーだー」

 ぐりぐりと背中に頭を擦り付けてアピールする。いつも岩泉のバイクに乗せてもらう時、及川は大人しくしているし、信号で止まった時に少し話すくらいだ。運転中に騒げるのは人の少ないこの私道までだとちゃんと理解していたから、かまってもらえるのは後少しだけだった。

「岩ちゃん、すきー」

「おまえな」

 岩泉は溜め息と共にバイクを止めると、体を捩って振り返る。ただ少し怒ったり呆れたりするやりとりができればそれでいいと思っていた及川は、岩泉の予想外の行動に驚く。何をしようとしているのかわからなくて、及川が固まっていると、岩泉は自分のフルフェイスのヘルメットを脱いで、及川の顎をぐいっと力一杯押し上げた。

「うげっ」

 咄嗟のことに抵抗できない及川の呻き声を無視して、及川のヘルメットに付いた目を覆う透明なシールドを避けて、顔を横に倒してちゅ、と触れるだけのキスをした。

「んっ」

 びくっと肩を揺らせた及川が吐息のような声を出すのとほぼ同時に、岩泉は顔を離してまたヘルメットをかぶる。照れ隠しのような素早い行動にも、驚いている及川は反応が出来ない。

「バイク乗ってる時はかまってやれねぇから、続きは帰ってから甘えろ」

「……はい」

 すみません、と思わず小さく謝って、それからは大人しくシートに座っていた。

再び発進したバイクは、道なりに進んで緩いカーブを曲がると、すぐに正門のある大通りに出た。大学前の国道は広く車通りもそこそこだった。青い車が一台、西陽の射す方角に走り抜けて行った。後続車がないことを確認して、岩泉はハンドルを切って車道に出る。

ここから岩泉の暮らすアパートまで二十五分。そこより少し手前にある及川の暮らすアパートまでは約二十分。今日は及川のアパートに泊まることになるだろう。冷蔵庫にあるもので夕飯を済ませられたら、出掛ける必要も無くなる。家に帰ったら甘えてもいいというお達しも出たので、及川は大人しく岩泉の腰に軽く手を回しながら、帰ってからどうやって甘えるかに頭を巡らせていた。

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