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2014 及川誕

 

 

 目を閉じていても瞼を通して柔らかい光が感じられて、岩泉一は目を覚ました。夢を見ていたような気がする。枕元のスマートフォンを見ると、時刻は七時二十分。その数字に眠っていた脳がびくりと反応して、無意識に時刻の下に小さく表示されている日付を確認する。画面の中の七月二十日という無機質な文字と共に、頭の中に三年前の夏のことが一瞬で甦った。

 

 

 

 暑い日だった。太陽の下にいると、じりじりと肌が焦げていくような暴力的な熱が感じられて、ジュースを買った岩泉と及川の足は自然と体育館の軒下の日陰に向かった。

「今日暑いね。こう暑いと熱中症になる奴も出そうだね」

体育館風通し悪いし気を付けないと、と付け足した及川の口調は、その内容の不穏さに比べ間延びしていてとても案じているようには見えない。しかし、彼の口調がどうであれ、この件については、彼が本当にそう思っているのだとわかっていた。及川は時々、自分の優しさや真剣さと言った人に好かれる要素を隠そうとするきらいがあった。でも、バレーに関して、及川は岩泉の知る限り誰よりも真剣で嘘は吐かない。

「今日はたぶん七月の最高気温更新だな」

「やっと夏休み入ったとこなのにー!」

 及川は伸びをしながらあくび交じりに叫んだ。うるせぇ、という言葉と共に及川の頭をぽかりと殴る。痛い!と叫んだ及川が、

「俺今日誕生日なのに! 優しくしてよ」

と言って岩泉をキッと睨んだ。及川は芝居がかった動きで殴られた頭を抱え、図体のデカい男の癖に上目遣いで恨みがましそうにこちらを見ていた。

「え、今日?」

「今日だよ!」

「七月何日?」

「はーつーかっ!」

「誕生日だっけ」

「ですけど!?」

「え、ガチ?」

「ひっどい岩ちゃん! また忘れてたの! 去年も一昨年も忘れてたし! 去年自分で何て言ったか覚えてるだろうね!」

「……来年こそ誕生日忘れない」

「うそつき!」

 及川は大きな声で叫ぶと、岩泉の腹に向かって渾身のパンチを繰り出した。その大きなモーションですぐに殴られると悟り、咄嗟に身を躱しながらも右手で腹部をガードする。及川の渾身のパンチは、岩泉によってあえなく防がれた。

「殴られろよ!」

「う、悪い」

 反射的に身を守る体勢を取ったことを後悔して、素直に謝るが、及川は大げさに嘆息して

「もういいよ」

 と、眠そうに目元をこすりながら言った。はじめからそんなに怒ってはいないらしい。

「岩ちゃんの記憶力なんか元から期待してないし。もはや毎年恒例だし」

 岩泉は返す言葉も無く項垂れる。及川の言う通り、ここ数年、彼の誕生日を忘れてばかりいる。

 小学校の頃のように母親が「今日は徹くんの誕生日だからプレゼント持っていきなさい」といつの間にか買っていたプレゼントを渡してくれでもしなければ、いちいちスケジュール帳なんて持ち歩かないし、女子じゃあるまいし日々の予定に「及川の誕生日」なんてメモもしないのだ。部活に勉強に忙しい男子高校生なら、いくら幼馴染でも友達の誕生日なんていちいち覚えて無くても不思議はないだろう。

しかし、及川徹は違う。毎年こちらの誕生日をしっかり覚えていて、日付が変わると同時に誕生日おめでとうのメールと、朝は家の前まで来てプレゼントを渡してくれる。このマメさが彼の女子からの絶大な人気の一因なのだろうが、生憎岩泉は及川のようにモテないし、すなわちそのようなマメさも持っていなかった。

「及川、マジで悪かった。今日が何日かすらわかってなかった」

「まぁ岩ちゃんだしねぇ」

及川はそう言うとまた一つあくびをして、午後だからねむーい、と気の抜けた声を出した。

「なぁ、お前なんか欲しいもんあるか」

「全国への切符」

「んなの当たり前だ」

「キャー岩ちゃんかっこいい! いいぞいいぞハジメ!」

及川は冗談を言って岩泉の言葉を流す。その反応から、欲しい物は無いのだろうと受け取り、ではどうするかともう一度思案する。

「あ、どっか行きたいとことかあるか?」

この言葉に、チームの応援の真似をして岩泉を囃し立てていた及川が、ぴたりと止まる。

「うーん、じゃあ」

少し思案するように目線を斜め上に泳がせていた及川のアーモンド型の瞳が、ぐるりと宙を彷徨って岩泉に戻ってくる。その大きな黒い瞳の中には岩泉自身が映っており、自分のつり上がった瞳の中にもきっと及川が映っているのだろうと思った。

「俺、海に行きたい。藍色のきれいな深い海!」

 

 

 

 慌てて顔を洗って着替えをした岩泉は、財布とスマートフォンだけをジーンズのポケットに入れて1DKの古いマンションのドアを開けて飛び出した。

 エレベーターを待つのももどかしく、すぐ近くの螺旋階段を一段飛ばしで駆け下りる。及川にメールをするのはひとまず駅に着いてからでいいだろう。郊外にある岩泉のマンションから、都内に行くには少しかかる。及川の住んでいるマンションの最寄りの駅は確か、と記憶を辿る。

一日予定のなかった日曜日が唐突に意味を持って動き出した。あの日からもう三年も経っている。あれから二人の環境はがらりと変わって、二人とも東京に進学したが、もう同じ学校にも通っていないし、一緒にバレーもしていない。腐れ縁は切れてしまったのだった。そして大学に入ると岩泉は勉強とバイトと、そしてたまに遊びでバレーをして、及川は及川で真剣にバレーを続けていて、忙しく過ごしているのだろう。進学した当初こそ慣れない土地と知らない人々にお互い心細くてよく連絡を取り合ったり食事をしたりしたものだが、大学が始まってしばらくするともうほとんど連絡すら取り合わなくなっていった。あとは一年に一回ある高校のバレー部の飲み会で顔を合わせるくらいで、二人は別の大学に進学した者同士の定石通り、知らず疎遠になっていった。

しかし、去年も一昨年もプレゼントこそなかったが及川は岩泉の誕生日を律儀にメールで祝った。そして毎年のことながら、岩泉は及川の誕生日をきれいさっぱり忘れていたのだった。

駅が見えてくると走る速度を落とし、ポケットからスマートフォンを取り出す。及川徹と表示された画面をタップすると、数回のコール音の後、ザーッという音と共に「はい」と声が聞こえた。

「もしもし、及川」

「うん、俺だよー。岩ちゃんめずらしいね、どうしたの」

「誕生日」

「え!?う、うん、そうだけど」

電話口の及川が慌てたのが無機質な機械を通して伝わる。そうしてハッとして立ち止まる。そこまで言ってから、自分が相手の予定も聞かずに会えるものと思い込んで家を飛び出してしまったことに気が付いたのだった。

「……おめでとう」

「う、うん……。なんで岩ちゃん今年は思い出したの……今日雨降るの……」

なんとなく、久しぶりで何を話せばいいかわからず、二人の間に奇妙な沈黙が広がる。昔だったら考えられないことだった。二人でいて、気を遣い合ったり、話すことがなかったりなんて、そんなことは一度もなかった。

「なぁ、今日も部活あんのか?」

「うん、まぁ、そりゃあね。日曜だし」

「……今お前んち行こうとしてるんだけど」

「へ、ええ? 何言ってんの岩ちゃん! 俺いま家出る準備してるよ!」

「……だよな」

 岩泉は自分の間の悪さを呪った。普通に考えてバレーの強豪校に進学した及川が日曜日に部活をしていないわけがない。本当に何も考えずに家を出てしまったのだ。

 電話口から及川の盛大な溜め息が聞こえた。

「もー、岩ちゃんの単細胞! 何も考えずに飛び出して来たの? 俺に彼女とかいて既に先約があったらどうするの! 岩ちゃんと遊んであげるのは午後からだからね! それまで待ってて!」

「え、は? どういうことだよ」

「今日ねー、部活午前練なの。及川さんはねー、午後からフリーなんだよ!」

思わず小さくガッツポーズするのと同時に、駅のアナウンスが電車の到着を告げた。

 

 

 日曜日の昼下がりの大学はまるで別の建物のように静まり返って、人の姿はほとんど見られなかった。約束した時間に及川を迎えに行くと、大学の門の前にTシャツにジーンズ姿のラフな格好をした及川が立っていた。休みの日だし部活だけならてっきりジャージで来ているかと思ったが、しっかり私服なあたり彼らしい。相変わらず目立つ容姿で、遠くからでもすぐにわかった。

 岩泉は手元のボタンを押して、運転席側の窓を開けて顔を出す。

「及川、乗れ」

「うえ、へ? 岩ちゃん! 車なの?」

 及川は車での迎えを少しも予想していなかったのか、思いがけない岩泉の登場に驚いて触っていたスマートフォンを取り落としそうになった。車に乗りこんだ及川はへらへらと笑って

「今の岩ちゃんかっこいー」

と上機嫌に言った。

「なんで車? レンタカー?」

岩泉が車を発進させると、エナメルバッグを後ろの席に放りなげた及川が尋ねた。

「海に行くから。駅前のレンタカー屋で借りた」

「あ、あのビルの二階の? 俺の家近いよ! てか海行くの!? なんで!?」

 デートなの、と矢継ぎ早に質問を繰り出す及川を、岩泉は前方に視線を向けたまま一言「うるせぇ」と一喝する。及川がご機嫌な時に騒がしいのは相変わらずなようで、変わらない幼馴染に岩泉は内心安堵した。

 

「んでね、こないだ試合出れなかったの」

「お前ほんと気を付けろよな」

ずるずるとラーメンを啜る及川を見つめながら、岩泉は眉間の皺を深くした。出発して早々ラーメン食べたいと騒ぐ及川を黙らせるため、岩泉は大きな駐車場のある国道沿いのチェーン店に入った。

「いやいや、捻挫なんか仕方なくない? どう気を付けるのさ」

ラーメンから顔を上げた及川が両手を広げて無罪をアピールする。右手に持った箸の先からスープがポタリと机に垂れた。岩泉は腕組みをしながらカウンターに目をやる。まだラーメンは来ない。

「あ、岩ちゃんお腹すいた? 俺のラーメン食べる? 煮卵とチャーシューはとらないでね」

 岩泉が何も答えない内に、及川は自分のラーメンをずいっと岩泉の前に押しやった。

「いいって、俺のもすぐ来る」

「でもこれ醤油だよ。岩ちゃんの頼んだのとんこつじゃん」

俺とんこつも食べたいよお母ちゃん、と及川は唇を突き出して上目遣いで言った。その芝居がかった調子が懐かしくて、思わず吹き出しそうになるが、なんとか堪えて

「うぜぇ、ウザ川」

 と、昔よくやった二人の掛け合いと同じことを言った。

「それめっちゃなつい!」

 そう言って顔をくしゃくしゃにして笑う及川の顔が記憶と同じで、岩泉は恥ずかしくなって顔を逸らす。昔から、及川は嬉しい時や楽しい時はこうやって笑っていた。でもその笑顔が、誰でも知っている及川徹の笑顔とは違うと知った時から、岩泉は及川の裏の無い笑顔をまともに見ることが出来なくなった。胸がドキドキして苦しくなる。岩済みは照れ隠しに目の前の醤油ラーメンを豪快に啜って一番大きなチャーシューを食べた。

 離れていた間に、及川も岩泉も変わったと思う。見た目も、考え方も、何を大事にするかも、どんなことに興味を示すかも。けれど、そんな違いがどうでもいいほど、やはり一緒にいて誰よりも居心地がいいと感じた。東京に来て知り合った誰といるよりも、及川と過ごしている時が最も自分らしくいられる気がした。

「大学の友達さぁ、俺がうざいこと言っても誰も岩ちゃんみたいに貶してくれないし、殴ってくれないんだよね。俺こっち来てから岩ちゃんの愛情にやっと気付いたよ。あれってやっぱ愛のムチだったんだね」

 及川は煮卵を頬張りながらなんてことなさそうにそう言って、だから俺最近は冗談言うの控えてる、と付け足した。だって突っ込んでくれる人いないと本気で言ってると思われるじゃん、と同意を求めるように語尾を上げた及川に、岩泉は「半分本気だろ」と言ってずるずると大きな音をたててラーメンを啜った。離れている間にできた新しい友人たちの誰よりも、岩泉のほうが及川を理解しているのだと思うとなぜだか気分が良かった。

 

 

「これどこの海向かってんの」

助手席に座った及川は長い足を窮屈そうに折り曲げて膝を抱えて言った。早々に靴を抜いでシートを限界まで下げていい感じにリクライニングさせるところが、なんとも及川らしいと岩泉は思う。こうして気を許した相手の前では子どもっぽくて厚かましいのが、本来の及川だ。けれどきっと、大学の友人の前ではこんな姿見せてないのだろうな、と思うと、及川の一番人間らしくてかわいいところを知らない友人たちがかわいそうに思えた。

「鎌倉んとこ」

「俺上京してから海行くの始めてかも」

「お前モテるのに女の子と行ってねーの」

「俺忙しいもん。そういう岩ちゃんは大学生活満喫してるような口ぶりですけどー?」

 ちらりと横目で及川を窺うと、立てた膝に顎を乗せて不満げに唇を尖らしている。

「別に。彼女いねーし。友達とは去年行ったけど」

「へー、女の子と遊んでないの。岩ちゃんさぁ、モテるでしょ」

「昔と言ってること違う気がするんですがねぇ、クソ川さん」

恨みがましくそう言うと、及川はクスクス笑って「あれ本気にしてたの」と言った。岩泉が何も答えないでいると、及川は独り言のように

「岩ちゃんはかっこいいよ」

 と呟いた。昔の及川なら絶対言わないような言葉に、岩泉は面食らって及川を見た。及川は黙って前を見ていた。

「お前なんか変わったな」

「岩ちゃんもね」

 俺は変わっただろうか。バレーをやめた。その代わりにバイトで忙しい。酒をよく飲む。こないだ麻雀で負けた。車とバイクの免許を取った。お金を貯めてバイクを買うのが当面の目標だ。そんなことは、三年前まで少しも知らなかった。

及川の言う通り、岩泉は変わったのだろう。しかし、及川はたぶん変わらない。

バレーをしている。何よりも優先しているはずだ。体も高校生の頃より筋肉が付いたと思う。きっと今でも毎朝ランニングをしているだろう。それは、岩泉のよく知る及川徹だった。

 岩泉が久しぶりに会った及川といて居心地良く感じたのは、きっと及川が変わらないからだろう。しかし、岩泉は変わった。変わってしまった自分といるのは、及川には居心地が悪いだろうか。

「岩ちゃんはさ、変わったっていうか、大人になったね」

「俺はいつまでも子どもなのに、岩ちゃんに置いてかれたみたいで寂しい」

「ずっと一緒だと思ってたのになぁ」

及川の言葉は無機質で、少しも感情がこもっていなかったけれど、岩泉にはそれが本心だとわかった。わかるからこそ、何も言えなかった。

七月の東京は宮城よりずっと暑くて、窓から差し込む太陽が素肌をじりじりと焼いた。それは三年前のあの日の宮城の太陽と一緒だった。ここにいる自分たちだけが変わってしまっていた。

 

 

 

途中で渋滞に引っかかったのもあり、海に近付く頃にはもうほとんど陽が落ちかけていた。連休の真ん中の日曜日は、夕方になっても人が多く、浜辺の近くはどこも車を停めるところが見つからなかった。岩泉の運転する車はだらだらと海の近くを移動して、そうして車通りの少ない路肩を見つけてようやく止まった。

すぐ傍に磯があって、西側を見渡すと人でごった返すビーチが見えた。目的地はあそこだった。三年前の及川が言ったような、きれいで深くて藍色の海では無かったが、日帰りで行けるきれいな海を、岩泉はそこしか知らなかった。

このうら寂しい磯はどう見ても目的の浜辺ではなかったが、及川が着いたねと、言って車を降りたので、岩泉も後を追うようにして降りた。及川はガードレールを飛び越えて足場の悪い磯をズンズンと進んで行く。サンダルを履いた足に、小さな石ころが歩く度に当たった。

時間帯のせいか、もしくはもともとそうなのか、釣りをする人も見当たらないここには、二人以外に人影はなかった。

波打ち際まで来た及川が大きな石の端に腰を下ろしたので、岩泉は少し迷って、わざとあけられたかのような及川の隣の空間に腰を下ろす。

「どうして海に連れてきてくれたの」

 海を見ていた及川が、唐突にそう言ったので、岩泉は及川を見た。海風が及川の前髪をふわふわと浮かせた。高校の頃より少し短くなった髪は、中学の頃の及川を思わせたが、それでもその横顔は昔よりずっと大人びて見えた。

「お前が海に行きたいって言ったから」

 こんな海が見たかったんじゃないだろうけど、と言い訳のように小声で付け足す。もっと早くに及川の誕生日に気付いていれば、ちゃんと計画してきれいな浜辺で遊ぶことも出来ただろう。わざわざここまで連れ出したのに終着点がここでは、及川もつまらなく思っているかもしれない。そう思うと申し訳なくて、もっと普通にスポーツ用品のプレゼントでも渡せばよかったかと今更ながらに悔やまれた。ずっと祝わなかった及川の誕生日をせっかく思い出したから、何か普通のことでなくて、思い出に残るような、及川が喜ぶことがしたかったのだ。

「藍色の海?」

及川は驚いたようにそう言って岩泉を見た。丸く見開かれた瞳に、自分の姿が映っていた。

「おう、お前そう言っただろ。高三の誕生日に」

 あの時は高校生で、まだまだバレーに打ち込んでいた自分たちに海に行く時間なんてなくて、行けるはずもなかった。及川も本当に実現できると思って言ったわけではなかったのだろう。その話はそれきり二人の話題にのぼることも無く、岩泉も、そして及川もいつの間にか忘れていた。それでも夢でその時のことを見て目覚めたら七月二十日だったから、これは海に連れて行けという及川の生霊の怨念かな、と思ったのだ。及川のことだから、生霊くらい簡単に飛ばしそうだ。

「そっか……。それで海なのかぁ。俺てっきり明日が海の日だからって安直な考えかと」

「悪かったな単細胞で」

「ふへへ、ううん。岩ちゃんらしいね、なんか。そういうこと覚えててくれたりすんの、たまーに気が利いてさ。岩ちゃんって感じする」

「なんだよそれ」

 褒めているのか貶しているのかわからない及川の言葉に、怒っていいのか素直に受け入れるべきかわからずに岩泉はどっちつかずの返答をした。

「ここの海、きれいだね」

「まぁな。お前が見たかったのとは違うだろうけど」

 そう言って手持無沙汰に石ころを触っていると、及川の手がスッと伸びてきて岩泉の手を掴んだ。熱くて、白い手だった。室内スポーツに明け暮れる及川の手は、岩泉の日焼けした手よりずっと白かった。

「ううん。あっちのほう、すっごくきれい。深いんだろうな。藍色だよ」

 岩泉の手ごとさしだされた白い手が、遠くに見える深い海を指していた。太陽はいつの間にか向こうのビーチの奥の低い山の下に消えてしまった。暗くなった海は、濃い青色で、とても深く澄んでいた。それはいつかポストカードで見た遠い国の藍色の海と同じ色をしていた。

 たぶんこれからも、岩泉は変わっていくし、及川も変わるだろう。別々の場所で過ごす時間が長ければ長いほど、お互いの知らないお互いになる。でも、それは二人の関係が変わるということではないのだと思った。岩泉の知らない及川がどれだけ増えても、岩泉には及川の隣が一番居心地がいいし、きっと及川もそうなのだ。

 岩泉は掴まれている手を上手に捻って、掌を合わせてそのまま手を握る。そうしてゆっくりと下ろして、二人の間に落ち着けた。こうして手を繋ぐのは小学生の頃以来だろうか。

暗くなっていく海辺に、二つの影が、少しだけ重なり合って座っていた。及川の白い手と同じくらい、岩泉の日焼けした手も熱かった。

 

 

 

 

 

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