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ぬるいです。首絞め表現あり。

 

 

 

 

 目を覚ますと、見慣れたオフホワイトの天井が見えた。電気は付いていなかったけれど、窓から差し込む陽射しで部屋は薄ぼんやりと白くて、事後の気だるげな空気をはらんでいた。まだきっと午前中だろうに部屋があまり明るくないので、今日はきっと曇りだろうと覚醒しきらない意識の中で考える。

 目線を動かすと、すぐ傍に男の大きな背中があった。きっと薄情な牛島のことなので、自分が起きるのなんて待たずにシャワーでも浴びているのだろうと思っていた及川は、珍しいこともあるもんだな、と少し驚いてその背中を見つめた。

一人暮らしの狭い部屋の中は、窓の外で鳴く鳥の声と備え付けの古びた空調が風を出す音だけで構成されていたのに、微かに紙の擦れる音がして、牛島が雑誌を読んでいるのだと気付いた。そして唐突に、つい数日前とても久しぶりに月バリを買ったことを思い出した。飛雄のことが載っていたのでつい買ってしまったのだった。どこに置いていたのだっけ。まさかいま彼が読んでいるのは月バリだろうか。なにもやましいことなどないのに、牛島に月バリを買ったことを知られるのは嫌だと思った。

 真偽を確かめるため起き上がろうとすると、体がすごく重くて、腰が異様にだるく、あえなくベッドに逆戻りする。そのつらさに小さく呻くが、数時間前に強い力で押し潰された喉は熱と軽い痛みを持っていて、音を出すことすら苦しかった。満身創痍とはこのことだろう。選手として活躍してた頃はこんなことくらいでここまで疲れなかったものだが、やはり第一線を退くとこんなもんだろうか。もうこいつと同じペースでセックスなんてしたら自分の体は持たないのだろう。

 及川は体を起こすことを諦めて、喉を擦りながらベッドに腰掛けている大きな背中に声をかけた。

「ねぇ」

 出来るだけ大きな声を出したつもりだったが、及川の意に反して声は掠れてほとんど出なかった。それでも隣に座っている牛島には届いたはずなのに、振り向きもしないし、何の反応も示さなかった。体がだるくて動けないのも声が出ないのも全部ウシワカのせいなのに、どうしてこいつはこうも無関心なのだろう。そんなに俺に興味が無いなら、どういうつもりで事が終わった後もこの部屋に居るのだろうか。牛島は時々わざと及川のことを無視するので、及川はその意図が読めなくていつも戸惑うのだった。

「おい」

 さっきより低い声で薄暗い部屋にぼんやりと浮かぶ背中に呼びかける。無視されて怒っているというアピールのつもりだったが、やはり反応はなく、しばらくしてまた紙の擦れる音がして牛島がページを捲ったのがわかった。

及川のことは無視するつもりらしい。それならそれでいい。腰も喉も痛かったしセックスの後の気怠さがまだ体中に残っていて、だから及川はすぐに全てが面倒になった。

 会話を諦めて仰向けに寝転んだまま天井を眺めると、素っ裸でシーツもかぶらずにベッドに寝ている姿はさぞ馬鹿に見えるだろうな、と考えて、及川一人おかしく思った。最中は暑くて空調を強めていたから、きっと今シーツも無しに寝ていられるのは牛島が空調を緩めてくれたのだろう。なんでそんなところには気が回るのだろうか。あるいは及川のためではなくて、自分のためにしたのだろうか。

 及川は手持無沙汰に牛島の引き締った背中を見つめた。今日も昨日も四日前も、及川はこうして牛島の裸の背中を見ていた。肩幅が大きく、肩甲骨がきれいな形で張り出て、背骨が真っ直ぐ伸びていてとても綺麗だった。筋トレを増やしたのだろうか、それとも鍛えるのをやめた俺の筋肉と無意識に比べているからそう感じるのだろうか。筋肉のしっかり付いた硬そうな牛島の背中に手を伸ばしたけれど、あと数センチほど足りなくて、及川の手はパタリとベッドの上に落ちた。

 及川は口の中で小さく「ウシワカちゃん」と名前を呼んだ。そうすると牛島の肩がおもしろいくらいにビクッと跳ねた。牛島はいつも変なあだ名で呼ぶなと怒るが、本当は自分に名前を呼ばれることが好きなのだ、と及川は知っていた。牛島はセックスの最中に名前を呼ぶと硬い表情が少し緩む。それはきっと嬉しい顔なのだと及川は解釈していた。

「ねぇ、頼むから加減してよね。マジでいつか死んじゃうから」

 及川は口の端を吊り上げて自嘲するかのような笑いを浮かべた。首を絞めることをはじめに要求したのは俺なのに、いったい何を言っているのだろうか。もう何度も繰り返して、その度にアンアン鳴いて気持ち良くてイク癖にやめろだなんて。及川はおかしくなって一人で笑った。笑うと喉が閉まってゲホゲホと咳が出た。咳が出るのもおかしくて及川は更に大きな声で笑って、もっと激しく咳が出た。さすがに無視できなかったのだろう。牛島が振り返って及川を見た。体を丸めて咳をする及川の背中に大きな手を這わせて、上下に擦る。首を絞められてイく癖にそんな風に優しくされるのは変な気がして、及川はまた笑った。もう咳が出るのは嫌だったので今度はクスクスと小さく笑う。笑っている及川の意図が読めないのだろう、牛島は胡乱げに及川を見て、いつもの冷静な声で言った。

「お前は死にたいんじゃないのか?」

 牛島は冗談を言わない。今もいつもみたいな真っ直ぐな目でそう言うので、きっとこいつの言っていることが正しいんだろう、と及川は冷めた頭で考える。セックス中に首を絞めてくれと言ったり、ハイになって一人で笑いだす俺と、いつも冷静なこいつなら、どちらの言っていることが正しいのかなんてわかりきっている。俺はきっと、死にたいのだ。そう思うとどうしようもなく泣きたくなった。

 

 牛島が冗談を言わないのが嫌だった。真っ直ぐな瞳が嫌いだった。バレー以外はどうでもよくて、たった一つをひたすら追い続けられるひたむきさが怖かった。その癖、及川のことはずっと好きでいつまでもそばに置こうとするところが馬鹿みたいに真面目でおかしかった。及川はもうとっくにバレーを続けられなくなったのに、もうトスを上げられない自分にどうしてこうも執着するのだろうか。こんな馬鹿馬鹿しいことを、いつまで続けるつもりだろうか。全部吐き出して怒鳴ってやれたら、どんなにすっきりするだろうか。けど、そんなこと出来ないに決まっているのだ。

ウシワカは殺すつもりで俺の首を絞めている。俺を殺したら自分だって困ったことになる癖に、そこまで頭が回っていないのだろうか。それともわかってて殺してくれようとしているんだろうか。馬鹿なんじゃないか。

 及川は苛々して、前髪がぐちゃぐちゃになるのも気にせずに顔を覆うようにぎゅうっと頭を抱えた。目頭が熱くて涙が出そうだった。苦しくて息も止まりそうで、どうせ息が出来なくなって死ぬなら早くこいつに殺してもらいたい、と思った。

 

 

 

 

 

 ねぇもっと乱暴にしてもいいよ、と及川が初めて言った時、牛島は心底不快そうな顔をして、お前は怪我をしているんだぞ、と言った。俺が怪我をしたのは半年以上前だよ、と言って笑ったら、お前の怪我は完治しないんだ、と言われて、及川は無性に腹が立ってすぐ傍にあった目覚まし時計を投げつけた。その後はなんだかよく覚えていないが、気付いたら一人でシャワーを浴びていたので、たぶんそのままセックスは途中でやめてしまったのだろう。あんな風にカッとなって記憶を失くすのは初めてだったから自分でもどうしたらいいかわからなくて、しばらくシャワーを浴びていた。シャワーを浴びて部屋に戻るともう牛島は帰ったようで、一緒に飲もうと買っておいたジンを及川は一人で飲もうかと手に取って、しかしこんな状態で酒を飲んでまた記憶を失くすのは怖いのであけなかった。

 牛島は酒に強いがあまり自分からは飲もうとせず、選手をやめてからよく飲むようになった酒を及川はいつも一人で持て余す。呼んでもいないのに練習が終わるといつも自分の部屋にやってくる牛島とそれを迎える家主の及川は、中学生からの知り合いだと言うのに、お互いのことをよく知らない。二人の関係は曖昧で、セックス以外のコミュニケーションを知らないから、シャワーを浴びて事に及ぶまでの恋人同士が大事にするような関わりはどうしていいかわからずにいつもおかしな空気になった。及川はバレーをしている時以外の牛島を知らないし、牛島もバレーをしている時以外の及川を知らない。今まではそれで何も問題なかったのに、急に二人の間にあったバレーという繋がりがなくなって、だから今の自分たちはどうしていいかわからずに中学生のように戸惑っているのだ、と及川は思っていた。

 バレーをしていた頃、二人にはバレーという何にも勝るコミュニケーションがあった。それからセックス。これだけで成り立っていた関係だから、セックスだけになってしまって、二人の関係は今にもバランスを失いそうなのだった。

 及川はチームの上層部から、コンディショニングコーチとして雇ってやれるから専門学校に通って医療系の国家資格を取れと言われていた。怪我でもうバレーを続けられない自分にこんな話がもらえるのは有難いことだとはわかっていた。でもまだどうしても気持ちを切り替えることができなくて、及川は何も決められないまま答えを保留していた。

 

 翌日、いつもの通り牛島は及川の家に来た。昨日のことなどなかったかのようないつも通りの無愛想で真面目な顔だった。シャワーを浴びてラフな格好に着替えた彼は、財布と携帯だけを持って及川の家にやって来る。そして朝起きてまた自分の家に帰って準備をして仕事に行く。よくそんな面倒なことをするな、と思うが、面倒くさがりの自分と違って牛島は真面目で几帳面だから、もしかしたらそれを義務のように思っているのかもしれない。セックス以外にまともな会話も無いのに、毎晩自分と過ごすのが義務だなんて、そんなの窮屈だし疲れるだろう。可哀想な奴だ。

「昨日はごめんね」

 及川はソファに座ってテレビに顔を向けたまま言った。牛島はたった一言

「気にしない」

 と言った。会話はそれだけで終わった。

 それからシャワーを浴びて、いつもの流れで二人はセックスをした。昨日中途半端にやめてしまったから、二人とも興奮していてすごく気持ちよかった。牛島は、及川の体の両脇に手を付いて腰を力いっぱい打ち付けた。及川はその大きな背中に手を回して、ぎゅうぎゅうと締め付けるように抱き締めて一人でイッた。浅い呼吸と言葉にならない音を発して喘ぐ及川に、牛島はちょっと体を離して待っていた。

「あぁ、はぁ、は……はぁ、すっごいきもちい……」

「大丈夫か」

「うぅ……ん、いいよ、動いて。もっとしたい」

 及川が手を伸ばすと、中に入った牛島のモノがまた奥までぐっと挿入された。あぁ、とかイイ、とか正気に戻ったら絶対後悔するような短い言葉を発しながら、もっと乱暴にしてくれればいいのに、と及川は思った。そうして、昨日もそんなことを言って、喧嘩になったのだったと思い出した。

「ねぇ、あっ、はぁ、ぁん」

「……っ、どうした」

「昨日、の、怒ってる」

 牛島は答えなかった。

「ね、くび、首絞めて」

 ここ、と言って俺は自分の首を右手でなぞった。牛島はちょっとだけ目を見開いて、しばらく腰を動かすのも忘れて及川の首を食い入るように見つめていた。及川がもう一度

「ここ」

 と言うと、牛島は体の両脇に付いていた手をゆっくり持ち上げて、及川の首にかけた。そうして体重をかけるようにぎゅうっと締め付けた。

「ん、ふぅ…んっ……」

 腰を打ち付ける音も自分の喘ぎ声も牛島の犬のような息遣いも聞こえなくなって、古い空調が風を出す音だけが聞こえていた。ゴーっという風の音がだんだん大きくなって、その内それがキーンという高い音になって聞こえなくなった頃、及川の意識は半分こっちで、半分あっちにいっていた。頭の中は真っ白で、何も考えられないようになる寸前、「及川」と名前が呼ばれるのを聞いた。男の声だったけれど、誰かはわからなくて、そのままイッて意識を失った。

 

 体を揺すられて目を覚ますと、牛島が覗き込んでいた。

「なに」

「生きているか確かめた」

 そう言えば、さっき首を絞めてもらったんだったな、と記憶を辿って思い出す。無意識に手で首筋を撫でると、痛かったか、と牛島が言った。

「いや、べつに。気持ちよかったよ」

 いい感じ、と及川は付け足した。体を確かめるときれいに清められていて、どうやら処理はしてくれたらしい。

「何か飲むか」

 いつの間にか移動していたらしい牛島の声が台所から聞こえた。喉が渇いていた。そう言えば、昨日一緒に飲もうと思って買っていたジンがあるのを思い出して、慌ててそこらに放り投げていたパンツを穿きながら台所に向かう。

「飲み物なら俺が出す!」

 飲み物くらい俺が、と言う牛島を押しのけて、これ、と行ってジンの瓶を差し出してニッと笑う。

「酒か……」

 眉を寄せて少し困った顔をしているのを視界の端に映しながら、構わずにパックのオレンジジュースを取り出す。

「オレンジブロッサムだよ」

 飲みやすいから、と半ば押し付けるように渡して、ソファに腰かけた。渇いた喉に熱い液体が刺さって少し痛いくらいだった。ソファの隣をぽんぽんと叩くと、牛島も隣に座って黙って飲んだ。

古い空調が大きな音を立てる部屋で、及川と牛島は会話も無く酒を煽った。酒があれば、何も話さなくてもいい気がした。先のことも、二人の関係も、何も考えたくなかった。

 

 

 

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