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「ねぇ、なーんで俺ばっかりご飯作んなきゃいけないわけ?」

 及川は整った顔を顰めて苛々と足踏みをした。不機嫌を体全体で表現しながら仁王立ちする及川に、影山は一瞬歯磨きする手を止めて首を傾げた。しかし、口の中に歯ブラシを入れたまま話す気にはならなかったのだろう、何も言わずにまたシャカシャカと歯磨きを再開した。その態度に及川の苛立ちは更に募り、ドン、と床を踏み鳴らして叫ぶ。

「おい! 飛雄! 何無視してんだよ! 俺お前の先輩なんだけど!?」

 影山は怒鳴りだした及川を見て事態の深刻さを悟ったのか、ちらちらと横目で気にしながらもうがいをきっちり三回した。そして及川に向き直って、自分では何事か思案するような表情を作ったつもりだった。しかし、元来対人関係においては不器用な影山は、この状況をうまく収めるにはどうしたらいいのだろうか、という面倒そうな顔を隠せていなかったようで、及川は顰めた眉を今度は吊り上げて、もうあとちょっとで火山は噴火します、という顔になった。美人は眉を顰めても吊り上げてもきれいなんだな、と影山は場違いにそんなことを思った。しかしさすがにこの考えまでは及川にも読めなかったらしい。

「なにその顔。俺の話聞いてた?」

 と、及川は顔を近づけて凄んだ。

「聞いてました。及川さんばっかりご飯作ってるって」

「そうだよ!俺はお前のおかあちゃんかっつーの!」

 影山は首を傾げて、でもそれは及川さんが作るからでしょ、と言った。そして、俺作ってくれなんて言ってません、と追い打ちをかけた。

「は?お前ほんっと生意気。じゃあもう今日からお前は俺の作った飯食べるなよ。俺は俺の分だけ作るからね」

 影山の言葉は及川を怒らせたらしい。飛雄なんてしーらない!と言って及川はさっさと準備をすると先に家を出た。扉を閉める前にべーっと舌を出して影山を煽るのを忘れずに。

 行き先は同じ体育館なのでいつも土日は一緒に出ていたのに、と影山は寂しく思った。

 

 

 おまえらどうしたの、という実業団のチームの先輩の言葉に、素直に影山は今朝あったやりとりを話した。及川はあからさまに影山に喧嘩を売ったり、失敗をすれば煽ったりと、傍目にもわかるくらい怒っていた。さすがに心配したのか、面倒に思ったのかはわからないが、事情を聞いて仲直りするためのアドバイスをしてやろう、との先輩の優しい言葉に、影山はどうしたら及川の機嫌を直せるのかを尋ねた。

「いや、お前さ……。いくら頼んでないっつってもルームメイトで、しかも先輩が毎晩夕飯作ってくれてたらお礼くらい言うし、たまには俺も作りますね、とか言うだろ」

「でも俺作れないっす、料理」

「なんにも?」

「……飯は炊けます」

 そりゃ炊飯器の使い方知ってりゃできるだろ、と先輩は眉を下げて笑った。

「まぁ飯は作れないにしてもさ、スポーツやるんだったら食事にも気を付けないといけないからいつも外食って訳にもいかねーじゃん。そしたら及川さんが作ってくれてることにせめて感謝くらいしないといけねーんじゃねぇの。お礼言ったりさぁ」

「お礼……」

 そう言えば、何も言ってなかったかもしれない、と影山は思い返す。自分は昔から、人の心の機微に疎いところがある。自分からしたらどうしてそんなことで、と思うようなことで人は悩むし、怒るし、泣いたりする。はっきり本人に直接言え、と思うことをうじうじと心の中に抱え込む。そんなことをしている暇があったら少しでも現状を変えるために努力すればいいのに、と思ってしまうので、どうしても他人との関係は平行線だった。それでも高校時代にいいチームメイトに恵まれたおかげで、なんとか他人の心に寄り添って考えるということが出来るようになった。しかし、影山飛雄という人間の根本はやはり同じなので、他人との、特に及川徹という男とのコミュニケーションではどうしてもうまくいかないことばかりだった。いったいどうして自分たちのような関係で同棲なんて出来るのかと他人から見たら思うだろうが、それは離れて暮らしたらもっとすれ違ってうまくいかない故の苦肉の策なだけである。そんなに相性が悪くても、影山はどうしても及川と一緒にいたかった。この感情は恋と言うよりむしろ執着のような気もした。

 

 

 

 その日の夜、練習終わりに家に帰って、風呂に入って一息吐いた後のことだった。もう寝るつもりなのか、髪をドライヤーで乾かした及川がタオルを洗濯機に投げ入れて、脱衣所から出てきた。

 影山は、言おう言おうと思ってあれから練習していた言葉を今こそ言うのだと、緊張で顔を顰めて及川の前に立ちはだかった。

「及川さん、いつもご飯作ってくれてありがとうございました」

「はぁ?」

 お礼言う奴の顔じゃないけど、と及川は顔を顰めた。そして、もう遅いよ、と言ってぷいっと顔を背けると、そのまま振り返らずにさっさと自室に入って行ってしまった。今日はもう出てきてはくれないのだろう。

 ただちょっと緊張していただけなのに、どうして『お礼言う奴の顔じゃない』なんて言われなければならないのだろう、と影山は少し理不尽に思った。

 お礼を言って許してもらおうという作戦はダメだった。お礼を言ってももう遅いなら、どうすれば機嫌が直るのだろうか。

 

 

 

「あー、なんかめっちゃ怒ってるなぁ、及川さん」

 翌日。お礼行ったけどもう遅いって言われました、という影山の言葉に対して、親切な先輩は苦笑した。俺も及川さんから昨日話聞いたけど、と前置きして先輩はこう言った。

「難しいのは無理でもさ、簡単な料理とか作って、及川さんに食べてもらったらどうだ?そしたら及川さんの気持ちもわかるし、及川さんも納得するんじゃないか?」

「なるほど」

 さっそくやってみよう、と影山は思った。新しいことに挑戦するとなると、なんだかちょっとわくわくした。

 

 

 

 

 夕方のあの高揚感は、バレーの練習をして帰宅する段階になると嘘のように消えて行った。一日仕事をして定時に上がって夜まで練習をすると、帰ってから夕飯を作るなんてどうしても面倒だった。スーパーで食材を買うのと、諦めて値下げシールの付いた弁当を買うのとで俺の心は大いに揺れた。それでもなんとか買い物かごにネギを突っ込むことに成功して、帰宅して手を洗う。

 まずはお米を洗って、炊飯器に水を入れて、スイッチを押す。ここまでは得意分野。スーパーの袋からネギを掴んで引っ張り出す。包丁は握ったことはないけれど、大丈夫、ネギくらいなら切れるはずだ。シンクの横に立ててあったまな板を取って、包丁を探す。料理をしたことがなかったので、包丁をどこに置いているかなんて気にしたこともなかった。引っ越してきた日に、及川さんが台所の物の置き場について説明してくれた気がする。自分が使うのは食器くらいなので、ほとんど聞き流してしまっていた。きょろきょろ周りを見回したり棚を開けていると、シンクの下の戸棚の裏側に包丁立てがあった。水切り台には何も乗っていなかった。及川さんは料理をしていないのだろうか。

 道具が揃ったところでネギを切り始める。右手で包丁を握って、左手でネギを押さえる。ん?ネギってどれくらいの大きさに切ればいいんだろうか。普段どんな大きさだったか、と記憶を辿ってみても、頭に浮かぶのはなんだかぼんやりした絵だけで、細部がわからない。今日先輩から教えてもらったチャーハンのレシピをメモした紙には、「ネギを切って」としか書いていない。常識すぎてネギのサイズまでは教えてくれなかったのだ。まぁ適当でいいだろう。これくらいだろうか。ザクザクとネギを切っていると、なんだか思ったより簡単そうで少し安心した。よし、次は「卵を二つ」。冷蔵庫から卵を取り出してボールに割り入れる。卵かけごはんをするので卵の割り方は知っている。菜箸で混ぜていると、玄関でガチャ、というドアの開く音がして、同時に独り言のような小さな声で「ただいまぁ」と聞こえた。及川さんが玄関に荷物を置くドサッという音。練習着やタオルが入った大きな鞄は放り投げるとうるさいから、静かに置けと言ったのはあの人なのに。靴を脱ぐ音がする。及川さんは廊下を通ってリビングに入ってくるだろう。リビングのドアを開けてすぐ左手にキッチンがある。リビングと対面式のキッチンだ。及川さんはなんて言うだろうか。喜ぶだろうか。

「あー疲れた。ってお前何してるの」

 及川さんはリビングに入ってきた姿勢のまま固まってぎょっとして言った。その姿がなんだかおもしろくて笑いそうになったが、なんとか堪えて「チャーハン作ってます」と言った。笑うとこの人はきっと怒る。俺が優位に立つことを無性に嫌うから。自分は先輩だから、とか、及川さんの言うことが聞けないのか、とか、二歳しか離れていないのにクソガキだとか、未だに言ってくる。別にそういう発言をいちいち気にしないが、気にしないなら気にしないで及川さんは怒る。俺はそういうやりとりは正直面倒くさい。もっと普通に及川さんと会話したかった。

「チャーハンってお前……え!ネギ切ってたの!?」

 まな板の上に置かれた不格好なネギを見て、お前も道具を使うということを覚えたんだねぇ、と及川さんはしみじみ言った。誰が原始人だ。

「あの、出来たら食べて下さい」

「……おいしく出来てたらね」

及川さんはそう言うと自室に入って行った。

 

 ここからが難関である。フライパンに油を引く。そこに卵を入れて、端が少し固まってきたらご飯を入れて、木べらで混ぜる、とメモには書いてある。卵ってどれくらいで固まったと判断するんだろうか。木べらで混ぜるって、どれくらい混ぜるんだろうか。料理ってどうしてこうニュアンスでばっかり説明するのだろう。初心者にもわかるように1分間混ぜる、とか具体的に指示してほしい。フライパンを前にうんうん唸っていると、ピーっという電子音が後ろから聞こえた。ご飯が無事炊けたようだ。炊飯器の蓋を開けると、白い湯気の下から更に白いご飯が現れた。ほかほかで、柔らかすぎず硬すぎず、とてもおいしそうである。もうこれでよくないか、白いご飯に卵かけて食べたら……と一瞬目の前の試練から逃げそうになる。きっと一人で食べるだけならわざわざ夕飯なんて作らないだろうな、と思った。

「ねぇ出来たのー」

 間延びした声と共に及川さんがキッチンにやってきた。高校の部活の名前が入ったTシャツにジャージというラフな格好に着替えている。

「ふーん、今から卵入れてご飯投入って感じか。お前できんの?」

 及川さんの言い方が冷たくて、俺は馬鹿にされているような気がした。誰のためにやってると思ってるんだ。本当にこの人は性格が悪い。

「出来ます……たぶん」

「へー。じゃあやってよ」

 そう言って及川さんはガスコンロを強火にした。「あったまったら入れるんだよ」と言ってニヤニヤ笑いながら俺の横に立つ。

「あっち行って下さい」

「やだよ!お前の失敗するとこ見たいもん」

「……性格悪い」

「あ?」

 俺の小さな呟き及川さんはガラの悪い声を出したが、別に本気で怒ったわけではないらしく、またニヤニヤ笑って早く早くーと歌うように言った。ご機嫌か。

「入れますよ……」

 ボウルを傾けて熱したフライパンに卵を注ぐ、ジューッという焼ける音と共に、フライパンの上を卵が滑って全体に広がる。俺がその様子をじっと見ていると、隣で及川さんが「ほら早くご飯!」と言って俺の前にさっき炊けたご飯を入れた器を差し出す。もう混ぜるのか、と思いながら礼を言って受け取る。卵を引いたフライパンの上にご飯を入れると、まだ火が通っていない柔らかい卵がご飯にまとわりつく。うわ、まずそう。

「なにボーっとしてんの」

 俺は慌てて木べらで混ぜ始めた。俺がぐちゃぐちゃとがむしゃらに混ぜていると、「ちがうちがう」と言って、及川さんは自分の手を俺の手の上に重ねるようにして木べらを掴んだ。

「もっとこう……底から救い上げて卵と混ぜるんだよ。それから、こうやって切るように……」

 及川さんの声が耳元で聞こえて、たまにかかる吐息に心臓がドキドキと高鳴った。及川さんからは香水のいい香りがした。握られた手から及川さんの体温が伝わって、俺が体を固くすると、及川さんはふふっと息だけで笑った。俺は言外に体の力を抜けと言われた気がして、ふぅ、と息を吐いた。

 

 その時ふと、俺がしたいのはこういうコミュニケーションだったんだ、と思った。俺と及川さんは男同士だけど同棲していて、皆には言わないけどセックスだってする。だけど、俺と及川さんの会話は二人っきりでも外でもセックス中でも変わらない。下らない言い合いやちょっと本気の喧嘩、たまに中学や高校時代の知り合いの話ともっともっとたまにバレーについて。そしてバレーの話の終着点はいつも決まって及川さんの無言の怒り。

 俺と及川さんは、普通の会話が出来ない。しようと思ってもうまくいかないから、付き合い始めてもう3年になるけど、いつのまにか努力するのさえお互いやめてしまった。だって最後にはいつも俺の言葉に及川さんは傷付いたような顔をするし、及川さんのそういう表情は俺を責めているようで苛々させられた。だから喧嘩になったし、及川さんはよく家出をして、俺はその子どもっぽい行動に更に苛々した。言いたいことは言ってほしかった。けれど、俺が言いたいことを言うと及川さんは「ふーん」とどうでもいいことであるかのような反応をして俺をイラつかせた。そして陰でいつも悲しそうな顔をした。それが俺の罪悪感を煽った。

 それでも俺は及川さんが好きだったし、及川さんのバレーも好きだった。憧れだった。それを言うと及川さんは怒ったけど、でもそれが俺の本心だった。及川さんは俺のことを嫌いだと言って、俺のバレーも、セッターの才能もムカつくと言ったけれど、でも俺にキスをした。その先もした。離れても離れても、俺のことを見ていた。だから俺たちは一緒に暮らすようになったけど、大人になったからお互いの触れてはいけない部分に触れないようにしようとした。そうして会話はなくなった。同じ部屋でテレビを見ていてもセックスをしていても、話はしなかった。

 けれど俺は、こうして及川さんと話したかった、関わりたかった。下らないことで笑ってほしかった。傷付けたくなかったし、怒らせたくなかった。どうすればいいかわからなくて放り出したままだったけれど、そうか、こうすればよかったんだ。

 

 及川さんが俺の手を離して、醤油とごま油をフライパンにさっとかけた。

「ほら飛雄、混ぜて」

 そう言って及川さんは笑った。俺は及川さんのそんな普通の表情を見るのが恥ずかしくて、チャーハンを見つめながら照れ隠しにちょっとぶっきらぼうに言った。

「及川さんよくこんな面倒なことやってましたね……俺一人だったら、ぜったい途中で卵かけごはんにしてました」

「なにそれ、なんでチャーハンが卵かけごはんになるんだよ」

 俺の言葉に及川さんはさっきより楽しそうに笑った。大きな口を開けて、きれいな顔は崩れて台無しだったけれど、俺はその顔に心臓がドキドキと鳴った。

「トビオちゃん、ほんと意味わかんない。天然だよね」

 俺テーブル拭いてくるから、器にいれて持ってきてね、と及川さんは言った。

 

 その後二人で夕飯を食べて、チームの先輩がチャーハンの作り方を教えてくれた話をした。次はベーコンを入れて作ってほしいと及川さんが言うから、俺はソーセージの方が好きだと言った。そしたら及川さんはトビオちゃんのえっちー、と小学生のようなことを言った。及川さんは笑っていた。俺も楽しくて笑ったら、及川さんはちょっと驚いた顔をしていた。

 

 

 その夜、久しぶりにセックスした。セックスが終わると、及川さんは小さな声で、俺も一人だったら料理しない、と言った。俺はその時初めて、及川さんはちょっと優しいのかもしれない、と思った。

 

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