top of page

 

「どうしたんだよ」

狭い部屋は運動後の男たちの熱気で湿度が高く、制汗スプレーの爽やかすぎる匂いは暴力的に嗅覚を支配した。古い空調が大きな音を立てて、それに負けない大きな声が部屋のあちこちから響いていた。二つ隣の壁際のロッカーで、喧騒に紛れるように声を顰めて話す岩泉と及川の背中を、花巻はちらりと横目で見た。隣で着替えていた松川の顔が同じように岩泉と花巻に向けられていて、彼も気付いているのだろうと思った。

「別に……つらくは……帰るし……」

 及川の顰めた声が断片的に届いてきて、やはり思った通り、体調が悪いのだろうと推測する。夏休みに入ってから、ここ数日涼しい日が続いていた。東北の七月はまだ涼しくて、たまに暑い日もあるが概ね過ごしやすかった。それでも昨夜は寝苦しくて、あぁ明日は気温が高いのかな、と眠りに落ちる寸前の意識の中でぼんやりと考えていた気がする。案の定、今朝も早くからセミが鳴き喚いて、雲一つない快晴の空の中、陽射しを避けて俯いて歩く花巻のうなじを早朝の太陽が容赦なく焦がした。トーストを齧りながら見るとも無しに見ていた朝のニュースで、スカートの短い茶髪のお姉さんが「今年一番の暑さになるでしょう」と元気な声で発表していた。

 だから今日は、監督と溝口くんからも朝の集合で「熱中症に気をつけるように」とお達しが出ていた。主将である及川も、朝の段階では「そういうことだから水分補給しっかりしてしんどくなる前に休むんだよ~」と間延びした声で指示していた。しかし、いつからだろうか。花巻が昼からの練習の前に声をかけた時には、もしかしたらもう元気がなかったのかもしれない。そう考えると、いつもみたいに余計なことを言っていなかったな、とか笑顔が引き攣っていたかもしれない、とか全部が全部そんな風に思えた。でも、帰り際、皆で後片付けをしている頃に見た及川は、もう確実に熱中症だったのだろう。いつもは参加するボールの個数確認や体育館のモップ掛けもせずに、体育館の片隅に座り込んだ及川は、首にかけたタオルで頭を抑えて俯いていた。暑さにやられたのだな、と思って声をかけようと一歩踏み出した時、視界の端から岩泉が躍り出てきて、座り込む及川に駆け寄って行ったので、花巻はそのまま踵を返して二年生が集まっているボール磨きの輪に加わった。

 あらかた片づけを終えた時点で後のことを一年に任せて部室に帰ると、そこには既に及川と岩泉がいて、古い空調を全開にしても蒸し暑い部屋の中で、唯一の扇風機を稼働させてベンチに腰かけていた。花巻を見て「おう」と言って顔をあげた岩泉に対して、花巻が同じように軽く挨拶して、及川に声をかけようとした時には、彼はそそくさと立ち上がって自分のロッカーに向かうと背を向けて着替えだしていた。話しかけるなという無言の意思表示に、花巻が岩泉を見ると、これまた話しかけるなという意思表示なのかただ単にタイミングが悪かったのか、彼もまた及川を追うように立ち上がって背を向けて着替えだしたのだった。

 普段うるさい奴が静かにしていると調子狂うなぁ、と花巻は思いつつ、彼らと並んでいる自分のロッカーに行って着替えるにも無視された後では空気が悪いしと悩んでいる内に、いつの間にかやって来ていた松川に「扉の前で立ち止まんのやめて」と、背中を押されて、その流れのまま三年の並んだロッカーの前で四人そろって着替えだしたのだった。

「じゃあバスで帰れよ。俺も一緒に帰るから」

「いいよ、そんなしんどくないし。もうよくなったから」

「なんでそんなことで意地張るんだよ、お前。熱中症くらい誰だってなるだろ」

「そういうんじゃない、体調悪いだけ。大きい声出さないでよ」

「ああそうかよ! 勝手にしてろよ!」

 会話が進むにつれて苛立ちと共に二人の声は大きくなって、耳をすまさなくても聞こえるようになり、最後に岩泉が怒鳴った声は、騒がしかった部室を一度で静まらせるのには十分な声量と怒気を含んでいた。

 あーあ、フォローしないと、と花巻が逡巡している間に、及川が口を開いた。

「なんだよ~岩ちゃんのおこりんぼ! カルシウム足りてないんじゃない? 牛乳のみなよ」

 あっけらかんとした声で冗談を交えつつ、及川はいつものような笑顔で岩泉を茶化した。途端に部室はいつも通りの穏やかな空気に戻っていた。張りつめた空気と、射すような視線を一身に浴びて、及川は自分の本心も体調の悪さも真実も全て嘘で覆い隠した。そういう及川の姿を見る時、花巻はいつも思うのだった。こいつとは友達になりたくない。岩泉はかわいそうなやつだ、と。

 案の定、岩泉は一人俯いて、自分の失敗と及川の嘘に傷付いているようだった。隣にいた松川が慰めるには少し強すぎる勢いでバン、と岩泉の背中を叩いて、反動で岩泉はゴン、とロッカーに頭をぶつけた。花巻と松川が噴出して、岩泉が松川に「おい!」と抗議の声を上げたが、そんな一連のやりとりにも目を向けず、及川は自分の額に手を当てて辛そうに目を閉じていた。

 岩泉は及川に献身的だ。いつも彼の意志を尊重している。けれど及川はそれではだめなのだ。いったいどんな人間なら、及川の隣で、彼を救うことが出来るのだろうか。花巻は岩泉一と及川徹という男たちの結末を心の片隅で想像して、すぐにそれを思考の外へ追いやった。

bottom of page