top of page

 昔ハムスターを飼っていたことがある。小さくてかわいくて、懐いてくると手の上で寝たりご飯を食べたりと、なかなかかわいかった。その頃から仲の良かった及川と一緒に、散歩だとか言って庭を散策させたりと一緒に楽しく遊んでいた。寿命が短くて三年ほどで死んでしまったが、初めて飼った生きもので、かわいい家族で、初めて知った大切な存在の死だった。今でもたまに思い出すと笑顔になれるような優しい思い出だ。そのハムスターが、小さい手で小さい顔をごしごし擦っている姿はなんとも言えずかわいかった。身体が小さくて顔と胴体の区別もほとんどないような丸い生き物だったから、顔を擦るのも体全体で動いていて、岩泉はその時初めて庇護欲という感情を知った。もちろんそんな難しい言葉をあの頃の岩泉は知らなかったけれど。

「んん~!」

 岩泉がやってきたのを知っていて、及川はわざとそういう声を出したように思う。じゃなきゃこんな馬鹿みたいな声、一人でいる時に出すには恥ずかしすぎる。及川が長い足を伸ばすと前の座席をほとんど蹴っていたけれど、既にその席の主は居場所を離れた後だった。人混みでも頭一つ飛び出るような身長の男が、両手を丸めてごしごしと目をこする姿はなんだかとっても滑稽だけれど、岩泉はなぜかあのハムスターを思い出した。小さい身体で手を一生懸命動かして顔を擦るハムスターと、180㎝を越える男が大げさな仕草で目をごしごしと擦るのとは大違いなはずなのに、岩泉は及川のことをよく知っていたので、そんな姿もなんだか愛嬌があるように感じられた。

「なに、目かゆいのか」

「ん~。岩ちゃんや~。及川さん目薬したいよ~」

 岩泉は及川の前の席を引いて、後ろ向きに座って向き合う。岩泉の顔を見上げて、及川は目をしぱしぱと瞬いた。生憎だが、目薬なんて気の利いたものは持っていなかった。及川の甘えたような仕草と変な口調に、クスクスと近くの席の女子たちが笑った。数人のグループには、岩泉のクラスの女子もいた。確か及川のことをかっこいいとよく騒いでいる。

「及川アレルギーなの?」

「え~、わかんない。なんだろう、かゆいんだよね~」

 声をかけてきたのは及川と同じクラスであろう長い髪を一つにくくった女子だった。及川との会話で名前は聞いたことがある気がしたが、忘れてしまった。岩泉は目をごしごしと擦る及川の手首を掴んで、それ以上擦らないように止める。ちょうど声をかけてきた彼女たちのうちの何人かが、自分たちのカラフルなポーチの中を探り出したからだった。

「あ、あった。及川くんこれ使いなよ」

 薄いピンクの容器に入った目薬を差し出した女子は、頬を少し赤く染めて、どこか期待に満ちた眼差しをしているように見えた。微笑む口元があからさまな好意を示しているように見えたけれど、それは岩泉の穿ちすぎな気もした。ありがとう、と社交辞令にしては愛想の良すぎる笑顔でもってそれに答えた及川は、いったいどう思ったのだろうか。その後はいつも通り松川と花巻がやってきて、四人で昼食を取りながら部活の話をして、及川も目を痒がったりしなかったので、岩泉はすぐにその事を忘れてしまった。

明日帰りに眼科行くね、と及川からメッセージが来たのはその夜遅くだった。そう言えば目痒がってたなぁ、と思いながら、待ち時間に暇つぶしできるようなものを思い浮かべて、そうだ、と思って及川に返事を送る。

岩泉がハマっているスマートフォン用のパズルゲームは、プレイするためのハートが必要だった。十五分に一つずつハートが回復する仕組みになっていて、そのハートは友達に送ってもらうこともできる。及川が楽しいよ、と勧めてきて、じゃあ貸して、と言って及川のスマートフォンを借りてやり始めたらなかなか楽しくて、なんでもやり始めると凝り性の岩泉はすぐに高得点を出し週に一回更新される友人内でのランキングでも一位を獲るようになった。及川のスマートフォンの端末から。

ランキングの一位の名前は及川の端末だからもちろん「及川徹」になっていて、岩泉がプレイして高得点を出していることはその現場を見た男子バレー部の数名しか知らなかった。そのパズルゲームをプレイしている女子たちは、及川くんすごいねぇ、なんて頬を赤くしながら「ハート送るね」と口々に言って、及川も及川で特に聞かれてもいないので真相は答えずに「今ハマってるんだぁ。送ってくれたら俺も返すよ」なんて笑っているから及川の端末には有り余るほどのハートが届いている。それを使用するのは専ら岩泉で、朝の電車の待ち時間とか、練習前や休憩中のひととき、お互いの家に遊びに来ている時などに及川のスマートフォンを勝手にいじって遊んでいた。及川は画面を横から覗き込んで「すごい」とか「あと10秒」とか真剣な顔で応援している。上手な岩泉のプレイを見ている方が楽しいそうだ。

あれをしながら明日は時間を潰そうと思い、及川に「ハート溜めといて」と一言送って、「おやすみ」と付け足した。すぐに返事は来て「わかった、おやすみなさい。また明日」と律儀な挨拶と共に陽気なスタンプが付いていた。及川みたいなうさぎが布団に入っていた。

翌朝、学校へ行こうと及川を呼びに行くと、出てきた及川は目を真っ赤にしていた。あぁこりゃ病院行かないとな、と誰が見てもわかる赤さだった。昨日及川が送ってきたスタンプのうさぎに似た赤い目をしていた。

昼休み、いつも通り及川の教室に行くと、及川の席の周りには女子が数人集まっていて、「大丈夫?」だの「早く眼科行ってね」だの口々に気遣うような言葉を述べていた。今日も彼女たちは自己アピールに余念がない。岩泉は定位置の及川の前の席に座るのを諦めて、左隣の椅子を引いて座った。

「あ、岩ちゃん!」

 ようやく岩泉の到着に気付いた及川が、女子たちの隙間から顔を出してにっこり笑った。岩泉の登場に、及川を独占していた女子たちはちょっと困った顔をしたように見えた。

「飯食うぞ」

「うん、でも待って、まっつんとマッキーまだじゃん」

「来たけど?」

 いつの間にかやって来ていた花巻と松川が、女子の群れの後ろから顔を出していた。二人の到着に、さすがの彼女たちも及川の元を離れるべきと思ったのだろう。

「これ使ってね」

「あ、後でハート送っとくね」

「早く良くなるといいね」

 及川の机にポケットティッシュを置いて、女子たちは去って行った。及川は人好きのする笑みで礼を述べて、うさぎみたいに真っ赤な目に目薬をさした。大きなアーモンド型の瞳から溢れた水が、頬のカーブを伝ってゆっくりと流れ落ちた。慌ててて置かれていたティッシュを一枚取り出して及川の頬に当てる岩泉に、

「岩ちゃんナイスキャッチー」

 と、及川が呑気な声を出した。

「及川目ぇめっちゃ赤いじゃん」

「なに、アレルギー?」

「わかんない、今日病院行く~。すっごい痒いよ~」

 アレルギーじゃん、ご愁傷様、と松川と花巻が言った。今日は水曜日で普段なら部活のある日だったけれど、ちょうど体育館に業者が入って清掃と点検を行うらしく、部活は休みになっていた。帰りに寄るならバス停の近くの眼科が近くていいが、家から駅と反対方向にある眼科は腕がいいと評判だ。少し遠いので自転車で行かなければいけない。どちらにするつもりなのかは知らないが、どちらでも着いて行くつもりだった。

 放課後、担任からの連絡事項があったせいで岩泉のクラスだけ終礼が長引いていた。他のクラスは既に終わったらしく、廊下もガヤガヤと騒がしく、岩泉は担任の目を盗んでそっとスマートフォンを覗き見た。メッセージを知らせるランプの点灯に、及川を待たせているからだろうと思い中身を確認する。

『岩ちゃん、俺眼科行くから先帰るね~』

 及川みたいな顔した目の赤いうさぎがとことこ歩いているスタンプと共に表示されたメッセージに、岩泉は驚いて、慌てて返事を送る。

『靴箱んとこで待ってろ』

 メッセージを送ると同時に担任が解散を告げて、岩泉は鞄を持つと一直線に扉に向かって駆け出した。

 教室の前で終礼が終わるのを待っていた生徒たちが、飛び出して来た岩泉に驚いて飛び退く。悪い、と言って振り返らずに走った。廊下を抜けて、階段を駆け下りながら、バスケ部の友人に声をかけられるが、返事もそこそこに走り下りた。一階に下りると、体育館へ続く道と逆に向かうと下足室がある。及川はそこで待っているはずだ。

 靴箱から自分の靴を取り出して、投げ捨てるように地面に放って上履きを脱いで靴箱に入れる。左右バラバラに落ちて転がっているシューズに適当に足を通して、かかとを踏んだまま玄関に向かう。迷路のように並んだ靴箱の壁を抜けると、見知った長身の後姿が目に入った。

「及川!」

 相手が振り返るより早く茶色の綺麗にセットされた髪をぐしゃぐしゃにするように掴んだ。

「いった!!」

「てめー何勝手に帰ってんだ!!」

掴んだ頭を離さずに力を入れる。身体の割に小さい頭だなぁと思う。

「ちょ、痛い痛い! 髪崩れる~!」

 わたわたする及川から手を離してやると、涙目になった及川が唇を尖らせてこちらを見上げて来る。岩泉より少し背の高い及川がそういう仕草をすると、普段との目線の違いに少しドキドキした。

「もぉ~。なんでいっつもそう馬鹿力なの~?」

 乱れた髪を撫でつけながら、及川が恨みがましそうに「ちゃんと待ってたのに」と言った。

「待ってたじゃねぇよ、何先に帰ってんだ」

「え、だって岩ちゃん眼科行かないでしょ?」

「行くわボケ」

「えぇ、なんで!?」

「ほら、さっさと行くべ」

 及川の前に立って歩き出す。着いて来てくれるの? と尋ねる及川を無視して質問する。

「お前どこの眼科行くの」

「えーと、バス停の近くのとこにしようかなぁって」

「そっちにすんのか? 向こうのがうまいだろ」

「あー、あそこ駅と反対側だから自転車いるじゃん」

「自転車取りに帰ってから行けばいいべ」

「今自転車壊れてる」

 げぇ、という顔を隠せなかった岩泉に及川もふくれっ面をする。仕方ないじゃん、壊れてるもんは。という目で見て来るので、岩泉は仕方なくこうすることにした。

「俺の自転車の後ろ乗ってけ」

 いいの? と尋ねる及川の声は、普段より少し弾んでいるような気がした。

 

「うわ~なんか小学生の頃以来ってかんじ?」

 家に帰って荷物を置いて財布とスマートフォンだけポケットに突っ込んで、自転車の後ろに及川を乗せた岩泉は住宅街を走っていた。

「岩ちゃん重い~?」

「重いに決まってんべ」

「岩ちゃん正直すぎ!」

 そういう時は嘘でも軽いって言わないと女の子にはモテないと騒ぐ及川に、岩泉は前を向いたまま聞こえないように呟いた。どうせお前といたら彼女なんてできねぇべや。それに欲しいとも思わない。バレーが出来て、親友といれる。現状に満足していた。

「あんま騒いでっと落とすからな」

 それでもなんとなく腹が立ったので、立ちこぎにしてスピードを上げた。危ない落ちる速いと楽しそうに騒ぐ及川を、岩泉は落とすつもりなんて毛頭なかった。

 

「結構待つかも」

 受け付けを済ませた及川が岩泉の隣に座ってそう言った。少し心配そうにこちらをちらちらと窺う視線に、待たせるのを悪いと思っているのだろうと気付く。別に待つのはなんてことないのだ。そのつもりで着いて来ているのに、今更こういうことを心配するのが及川らしいと言えばらしいのだが、意外と小心者だなぁといつも思う。

「ん」

 及川の無言のお伺いには答えずに手を差し出すと、及川がコートのポケットに手を入れてスマートフォンを取り出して岩泉に渡した。目的を言わなくても、二人でいる時にすることがなくなるといつも借りているので及川にもすぐにわかった。

「おー、ハートめっちゃ来てんじゃん」

「ハート送ってね、って言っといたからね!」

 偉いでしょ、褒めて、と言わんばかりの自慢げな口調に「おー偉い偉い」とおざなりに返事をしてゲームのスタートボタンを押した。レディー、ゴー!という甲高い子どもみたいな音と共に、ゲームがスタートする。ちょうどゲームはイベント期間で、特別なイベントをこなすと新しく追加されたキャラクターが手に入り、強化することが出来るようになっていた。

「これ勝ったら新しいのもらえる?」

「おー」

「あと5秒だよ」

「おー」

 岩泉は指先を画面の上ですいすい動かして、キャラクターの顔の形のパズルを繋げて消していく。

「あ、すごいいったんじゃない?」

「たぶん記録出たな」

 他の人の迷惑にならないように小声で話しながら頭を寄せ合って画面を覗き込む。案の定、新記録が出て、今週のランキングのトップに「及川徹」の名前が載った。

「また記録更新しちゃった。さっすが岩ちゃん」

「お前の名前だけどな」

「岩ちゃん自分のでやらないもんね」

「アプリすら落としてねぇ」

「俺のハート目当てだ」

 及川は声が響かないようにクスクスと笑った。嬉しそうに笑うので、もっと高得点を出してこの笑顔が見たいなぁと思う。パズルゲームは特別好きではなかったけれど、及川のスマートフォンを勝手に使ってゲームが出来るのは、世界中で自分だけだと思うと、言い様も無い気持ちになる。きっとこれが優越感なんだろう。

 岩泉がたまったハートを全部使い切る頃には及川は飽きてしまって岩泉の肩にもたれて眠っていた。岩泉は黙々とハートを消化し、貯まったゲーム内コインで新しいキャラクターを手に入れて、また黙々とパズルに没頭した。

「岩ちゃんツムツム職人さんみたいだね」

 岩泉の肩に頭をもたせかけたまま及川が寝起きの掠れた声で呟いた。てっきり眠っているとばかり思っていたので、岩泉は一瞬ドキリとした。

「寝てたんじゃねぇのかよ」

「寝てるよ」

 その言葉通り、及川の声はまだ眠りの淵にいるような不明瞭さで岩泉の剥き出しの耳をくすぐった。

「じゃあ寝てろ」

「寝てるもん……」

 及川が甘えるような仕草で頭をぐりぐりと肩口に擦り付けくるのがおかしくて、岩泉は声を殺して笑う。

「ぐりぐり~」

「うるせえ」

 そう言いながらも岩泉の声は笑っていたし、少しも煩わしくはなかった。小学生の頃はよくこうやってくっついて遊んでいたなぁなんて懐かしいことを思い出す。そうしていると、カルテを持った看護師が及川の名前を呼んだので、及川は立ち上がった。

「あ」

「おん?」

「メッセージ来たぞ、女子」

 ぴこん、という間の抜けた音と共にメッセージが届いて表示される。名前から女子だと判断して岩泉は及川に画面を見せた。

「あ~岩ちゃん適当に返事しといて」

「出来るか」

「じゃあ後で返すからほっといて、ゲームしてていいよ」

「おう」

「急いで戻って来るね」

「医者急かすな」

「ふへへ」

 及川は看護師さんに「こんにちは」と笑顔で挨拶しながら診察室に入って行った。こいつのプライバシーはいつでも俺に筒抜けだな、とスマホに表示されたメッセージを見る。

『及川くんすっごいね。またランキング一番じゃん!』

 これを送った女子はまさか他の男がメッセージを読んでいるとは思わないだろう。及川に好かれたくてハートを送ったりしているのかもしれない。でもそのゲームだって、岩泉がプレイしているのだ。及川は岩泉に何も隠さない。岩ちゃんは俺のことなんでも知っててね、と言うのだ。

 ただの幼馴染とこんなにも仲が良いのは少しおかしなことなんだということはわかっている。きっと及川だってわかっているのだ。でも、だって、それでもいいじゃないか。これが幼馴染や親友という言葉で表現できない関係だとしても、言葉に出来ない関係だって存在するのだ。ここに。

 

 

 

bottom of page