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岩及前提、金及、国及 誰も幸せじゃないです。

 

 

 

 

 早朝のまだ人の少ない校内を部室へと歩いていると、見知った背中が見えて、松川は足音を消して駆け寄った。

「よぉ」

「うわっ!」

 後ろから肩を叩くと、金田一は大げさなほどに驚いて持っていたスマートフォンを取り落としそうになった。一瞬見えた画面には、白い背景に及川と金田一のツーショットが映っていた。

「及川との写メ?」

 朝からそんなの見てニヤニヤしてたの、とからかうと、金田一は顔を真っ赤にして両手を振って否定した。

「いや、ち、ちがいますよ! 急に松川さんが声かけるからびっくりして」

「ふぅん、金田一、お前実は及川のこと……」

「ち、ちがいますって! ほんとに!」

 金田一の慌てる様がおもしろくて、内心悪いと思いながらもからかうのがやめられない。後輩をいじるのは悪い癖だと、前に岩泉に怒られたことがある。花巻と及川と三人して正座させられたのを思い出す。だって反応がかわいいし、と唇を尖らせる及川に、岩泉の拳骨がお見舞いされて花巻と二人して腹を抱えて笑った。たとえ岩泉の拳骨をもらうとしても、金田一をからかうのはやめられない。それは松川のできる最大の愛情表現でもあったから。

「お前が及川を好きなんてなぁ……あ、中学からの片思い?」

 純愛だなぁ、と笑うと、金田一はますます焦って両手を振って否定する。

「違うんですって! これは、その、あれで!」

「うんうん、わかるぞ金田一。でもな、いくらお前が及川を好きでもな、及川には岩泉がいるだろう? あの二人はあやしいぞ」

「え!? そんな、え!?」

 今度は金田一は混乱してまともに言葉も続けられなくなっていた。期待通りの反応に満足して、冗談だよ、と松川が言おうと口を開きかけた時、金田一が声のトーンを落として言った。

「松川さん、冗談ですよね? 及川さんと岩泉さんってほんとに……」

 その縋るような目つきと真剣な声音に、松川は笑うことが出来なくなって、ただ一言「冗談だよ」と言うしかなかった。自分の思ったよりもずっと、松川の言葉は真剣に捉えられたらしい。

 やっぱり事実だから、冗談になりにくいのだろうか、と思う。岩泉と及川が付き合っていることを、松川は一年の時に、ふとしたきっかけで知った。以来、誰にも話していないし、これからも言うつもりはない。及川と岩泉は仲が良いけれど、それは幼馴染として、チームメイトとしての友情だと皆が思っている。同性愛など、簡単に打ち明けられることではない。松川は彼らの関係を知った時、同性愛を差別する気持ちも、二人を気持ち悪いと思う気持ちも不思議と湧かなかった。むしろ及川と岩泉なら自然なことに思えた。だから、松川は彼らの信頼できる友人として、この事を自分だけの秘密として心の中に留めてきた。

 さっきまでの元気も無く、不安そうな顔をした金田一に、もう一度「からかっただけだ」と言って、背中を軽く押して部室へと促した。部室の鍵を開けるためにいつも一番乗りしている及川と岩泉は、もうきっと着替えを始めている頃だろう。

 金田一の顔をちら、と伺うと、その顔には不安が浮かんでいて、手の中のスマートフォンは苦しいほどにぎゅっと握りしめられていた。自分の発言の何が金田一の心を揺さぶったのだろう。まさか、及川と岩泉の関係を本気にしたのだろうか。この純粋で他人の悪意や嘘を見抜けない真面目な後輩が、まさかあの二人の関係を疑っているとは思っていなかった。

「金田一、俺の言うことなんでも真に受けるなよー。俺、お前からかうのを日々の楽しみにしてるからネ?」

「え、そ、そうなんですか……? ありがとうございます……?」

 首を傾げて礼を述べる律儀な後輩に、吹き出しそうになるのを堪えてぽんぽんとその背を叩く。

 金田一が及川と岩泉の関係に気付いたなんて、自分の取り越し苦労だろう。なぜ金田一が自分の言葉に不安そうな顔をしたのかという疑問は残ったが、そこまで突っ込んで聞き出すようなことでもないと思ったので、松川はそのまま金田一の心の機微には気付かなかったフリをした。

 その時感じた違和感も、忙しい日々の小さな疑問の一つとして、松川は朝練が始まる頃にはすっかり忘れていた。思い出すことも、いったいどうして先輩との写真一つであんなに焦ったり、岩泉と及川のことを真剣に気にしていたのかと不思議に思うこともなかった。きっとこれ以外にもサインはあったのだろうと思う。しかし、それも今のように日常の中の小さな出来事でしかなくて、だから自分が後にこの事が意味する大きな出来事に気付いたのも、小さなパズルが組み合わさった故で、本当に偶然でしかなかったのだ。それほど巧妙に、ずる賢く、けれど呆れるほど大胆に、その事実は部外者には隠されていたのだった。

 

 

 

 セミが頭の中で鳴き喚いているように感じられるほどに、その耳をつんざくような合唱が世界を包んでいた。昼休憩が終わる頃には、もっと気温が上がっているだろう。想像するだけで嫌になる。拭いたばかりの汗が首筋を伝って流れ落ちて行った。

 体育館の出入り口のすぐ横にある自販機で目当ての紙パックのジュースを買ったら、エアコンをフル稼働させた部室に真っ直ぐに戻るつもりだった。しかし、誰もいないと思っていた静かな体育館の中から、人の声がしたような気がして松川は足を止めた。声の主は怒っているのか、その大きな声は周囲の喧騒をかいくぐって松川の耳にはっきりと届いた。

「じゃあなんで俺に上げてくれなかったんですか!!」

 それに対し、もう一つの声が何事かなだめるように落ち着いたトーンで返すのがわかった。盗み聞きはよくないとわかっていたが、話の内容からバレー部の人間だと思い、どうしても気になって松川は体育館の開いた窓の下にそっと近寄る。

「あの時は国見ちゃんに上げるより岩ちゃんに上げた方がいいと思ったんだ。今日は岩ちゃん調子よかったし。国見ちゃん、調子悪そうだったから、ここで無理に打たせて失敗して自信失くすより、休憩挟んで午後練で調子戻ってから気持ちよく打ったほうがいいと思ったんだよ」

「でも打ちたかったんだね、ごめんね。俺国見ちゃんの気持ちわかってなかったね」

 窓からそっと覗くと、中には国見と及川がいた。幸い、二人ともこちらには背を向けていて、俯く国見の背中に及川が労わるように手を当てていた。

 話の内容からして、午前の練習で行った紅白戦のことだろう。レギュラーと準レギュラーで試合をしていたのだが、確かに今日は国見の調子が悪かった。元々張り切ってやるタイプではないが、それでも決めるところはしっかり決める奴だし、手を抜いていて失敗しているのではないのは、誰の目から見ても明らかだった。しかし、この時期に準レギュラーとの紅白戦でいいところを見せられなければ、レギュラー落ちもあり得ることだ。国見は試合が進むにつれて焦って行くように見えた。同じポジションの岩泉がフォローのために声をかけても、国見はイライラした様子で、しかし必死でその苛立ちを抑えようとしているようにも見えたので、松川は何も言わなかった。人それぞれ個人的な事情もあるし、何かあるのだろうが言いたくないなら聞くべきではないと思ったのだ。

「及川さんは、岩泉さんとやっぱり何かあるんじゃないんですか」

 国見は顔を上げて振り返って及川を見た。その真っ直ぐの黒い瞳は涙でぬれていて、それが悔し泣きであろうことを、松川はなんとなく悟った。

「何もないよ、何言ってるの、国見ちゃん。俺と岩ちゃんはただの幼馴染だよ」

国見の追求に、及川は焦りもせずに落ち着いた声で答えた。滅多な事では自分のペースを崩さない、飄々とした及川のことだ、きっとその顔には笑みさえ浮かんでいるのだろう。その魔法みたいな言葉と態度で、国見はきっと丸め込まれて懐柔されるのだ。こうして他人を操ることに長けた及川の巧妙な技巧によって、岩泉と及川の関係を知らない者は、一生何も知らないままで終わるのだろう。

及川は、手を広げて国見を抱きしめると、とびっきり優しい声で、

「好きなのは、国見ちゃんのことだけ」

 と言った。その好きが意味することを、一連の会話の流れから松川ははっきりと理解してしまった。及川が言う『好き』が、つまり友情を越えた愛としての『好き』だと。

 及川と国見がそういう関係であるということ、その衝撃的な事実を松川がまだ消化しきる前に、ざり、という砂を踏む音がして、慌てて振り返る。いつからいたのだろう、後ろには岩泉が立っていた。

「岩泉……」

「松川、今見たこと、誰にも言うなよ」

 岩泉はちら、と視線を窓の方に向けた。中ではまだあの二人が親密そうに抱き合っているのだろう。松川は、口を開きかけて、しかし何も言葉がつげずに口を閉じた。何を言えばいいのかわからなかった。岩泉の口ぶりからして、彼は知っていたのだろうか。二人がそういう関係であることを。どうして、許しているのだろうか。松川は一年の頃から岩泉と及川のことを知っていた。二人が親密な関係であることも。

「国見がかわいそうだろ?」

大きな木の下で、岩泉の顔に影が落ちていた。表情はうかがえなかったけれど、その声音はいつも通りに聞こえた。

「及川と俺が、中学のころから付き合ってるなんて、いま国見が知ったら、きっと練習に影響が出る。黙ってる方がいいんだよ」

 黙っていたら、それは国見への裏切りではないだろうか。しかし、打ち明けることも、国見を傷付けると思った。そうだとしても、岩泉の理屈は、言い訳にしか聞こえなかった。こんなことを、恋人の浮気を、しかも部内の後輩という近しい間柄との関係を、どうして受け入れられるのだろうか。同性愛者のことは何もわからないけれど、こんなことが普通ではないことだけは、きっと異性愛者だろうが同性愛者だろうが変わらないはずだ。松川は何から咎めればいいのか、どう言えばいいのかわからずに目の前の友人を見つめた。。

「この方がいいんだ。及川と話し合って決めた。俺たちはどうしても全国に行きたいんだ。国見も、金田一も、恋人が同じチームにいることがプラスになるタイプの人間だ。だからあいつら、一年なのにレギュラーも取った。チームはいい雰囲気だ。一年も、次の春高を最後だって気持ちで戦ってくれてる」

 国見も、金田一も。その言葉が松川の頭の中でこだまして、同時にたくさんの小さな記憶が甦った。断片的な記憶の欠片たちが、パズルのピースのように組み合わさって、一つの事実を松川に突き付けていた。

 あの日、まだそれはインハイが始まる前、五月の半ばくらいだったろうか。朝練の前に、見かけた金田一の後姿。彼が見ていた写真。背景の白いものは、あれは、シーツだろうか。小さな画面の中でふざけてピースをする及川と必要以上に密着した金田一の、不自然なくらいに開けた胸元。服を着ていなかったのかもしれない。慌てた様子の金田一が、探るように不器用に確かめてきた冗談かという言葉。松川は冗談のつもりだった。しかし、あれは、そういうことだったのだろう。

 暑さか、それとも耳鳴りのせいか、頭がくらくらして、セミの鳴き声だけが頭の中に響いた。冷静になって、岩泉と話し合わなければいけないと思った。こんなことはやめるべきだ、と。けれど、そんな真っ当なだけで何の解決にもならない言葉が、今更岩泉にとって意味をなさないこともよくわかっていた。一年の頃から一緒にバレーをしてきて、ずっと彼のことを知っていると思っていたけれど、それは自分の一方的な勘違いだったのだ、ということが松川の頭の中をぐるぐると回った。こんなことをする岩泉を、松川は知らない。

「お前が黙っててくれれば、全部うまくいく。お前だって、春高で全国に行きたいだろ?」

 ふと強い風が吹いて、木の葉がざわざわと揺れた。そして岩泉の顔を隠していた影が動いて、明るい陽射しの下に、一瞬だけ彼の顔が浮かんだ。その真剣な眼差しは、松川の心を痛いほどに捉えて、何も言えなくなるほどの衝撃を与えた。彼は本気なのだ。及川も、本気なのだ。その痛々しいほどの覚悟が、松川には哀れに見えて仕方なかった。二人は正しくない。間違っている。でも、もしかしたら、岩泉の言う通り、結果につながるかもしれない。万に一つでも、彼らの策略が功を奏したら。それは、冬になればわかることだった。

 彼らはただ勝つために、それだけのために後輩を二人も騙しているのだ。いや、松川が知らないだけで、本当はもっとたくさんの人間が関わっているのかもしれない。でも、それを知って、自分に何が出来るだろうか。既に雁字搦めになってしまった皆の関係を、きれいに解いて何もなかったことにすることなど出来ない。それが出来ないなら、自分が何をしたところで、もっともっと絡まり合って事態は収拾のつかないことになる。それならば、何もしないこと、知らなかったフリをするしか、松川にできることなどないのだ。

 

 

  誰も彼も口を閉ざす

 

 

 

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