フレックスとかいうおしゃれなカタカナ言葉の勤務体系で働く岩ちゃんは、大学時代から色々やっていたおかげで、外資系の会社で異例の出世を果たした。給与明細を二度見するほどの高給取りなのに、これ以上稼いでどうしたいというのか、最近はデイトレードでもちょくちょく稼いでいるようだった。俺には経済学の知識は皆無だし、新聞も読まなければ株も買わない。だから岩ちゃんのしていることは大概訳が分からない。
「ねぇそれは得してるの?」
「あー、どういえばいいかな……」
青い線がうねうね動いて、ゆっくり右肩上がりなのがたぶん良い。
俺の持っている知識はそれくらいで、こういう質問が専門的な観点で言えば的外れで答えようのない問だということはなんとなくわかっていた。でもだからって、俺が何も言わなければこの部屋にはマウスを右クリックするカチカチ音しか聞こえなくなる。
「あれでしょ、右肩上がりだからいいんでしょ?」
「うんまぁそうだな」
岩ちゃんの座る椅子は座り心地の良さと軽さと、あと腰やお尻を痛めないとかそういう売り文句のお高い椅子だ。俺なら椅子一つにこんな値段は到底出せないけど、岩ちゃんは仕事でだいたい座っているから良い椅子が必要だし、お金もあるので“良い物”を買う。岩ちゃんが“良い物”を買うので、一緒に暮らすこのマンションは“良い物”だったし、一緒に使う家具や家電も“良い物”だった。
岩ちゃんの背中に手を置いて隣に立った俺が一向に離れないので観念したのか、岩ちゃんはノーフレームのブルーライト軽減レンズを使った眼鏡を外して両目を強めに揉む。もうパソコンに向かうのは終わりの合図だ。
「俺ね、明日からもうちょい練習することにした」
「また遅くなんのか?」
「んー、これ以上遅いと寝る時間遅くなるし、早めに行こうかなって」
「やりすぎんなよ」
やめておけ、とは言わない岩ちゃんが好きだった。ここのところチームは負け越しているし、次の試合を控えてどうしても勝ちたかった。身体が辛くないといえば嘘になるが、腰や膝など、身体の不調を抱えていないスポーツ選手などいないのだから、様子を見つつやっていくしかない。
「岩ちゃんこそ最近そればっかじゃん。お金に困ってるわけじゃないんだし、家でくらい休みなよ」
椅子とセットになっていたシックな黒のデスクの隅に置かれた赤い目薬を取って、蓋を開ける。これもまたブルーライトがどうたらを謳ったパソコン仕事をする人のための目薬で、岩ちゃんはこれを会社のデスクと自宅に必ず一つずつ置いているそうだ。俺はそれを右手に持って、斜め後ろから岩ちゃんの頭を撫でる。
「ハイ上向いてー」
「ん」
言われるがまま大人しく上を向いた岩ちゃんの顔の上で目薬を構える。
「右からいくよー。おっきく目開いてー」
「ん」
顔にそっと手を添えて言うと、目を開いた岩ちゃんの口が一緒になって開く。
「ハイお口は関係ありませんー。閉じてくださーい」
「む」
目薬を逆さにして少し指先に力を入れると、パッケージと同じ赤色の薬が先から一滴ポトリと落ちた。瞬間、岩ちゃんが目を閉じる。
「ハイ次左ねー」
「ん」
黒い瞳がぎゅ、と閉じられて、溢れ出た薬を傍のティッシュを一枚取って拭く。そのまま左目にも同じように目薬を差す。
「ハイよくできましたー」
「おう」
俺の手からティッシュを奪うと、自分で乱暴にごしごしと擦って、岩ちゃんはふぅ、と溜め息を吐いた。
「そんなに疲れるんだから、ほどほどにしなよ。何か欲しいもんでもあるの?」
「んー、まぁ……」
いつもハキハキしていて嘘もごまかしも無い岩ちゃんの、珍しく歯切れの悪い言い方に俺は興味をそそられる。
「なに? 岩ちゃんの給料で買えないようなもの?」
「うん、たけぇ」
「なに? 車とか?」
「いや」
「プレゼント?」
「そんなとこ」
「誰に? おばちゃん?」
「母さんには仕送りしてるし、別にそんな高いもん欲しがらねぇし」
「なに? 俺には内緒?」
しつこい追及をうまくかわせない真面目で真っ直ぐな岩ちゃんは、観念したように溜め息を吐くとガシガシと頭をかいて言った。
「ほら、お前最近酸素カプセル行ってただろ」
「あぁ、うん。トレーナーの赤葦クンに紹介されたやつね」
「あれさぁ、忙しいからあんま行けねぇじゃん」
「うん、まぁ。それに高いし……」
「金は出すっつっただろ」
「頼もしすぎ」
金なら出す。こんなことをすっぱり言ってのける男らしさが、まさに岩泉一! という感じではあるが、岩ちゃんのそういうところに、俺はいつもこっそり心苦しさを感じる。背中の筋に違和感を感じると言えば九十分二万円もする整骨院に行かせてくれたり、今月は苦しいと言えば食費や電気代を払ってくれたり、本当に何から何まで出してくれる。
「でもお前毎日朝から晩まで練習だから酸素カプセルなかなか行けねぇだろ? だから買おうと思って」
「うん?」
「だから買おうと思って」
「何を?」
「お前話聞いてたか? 酸素カプセルだよ」
「いやいや、なに!? 本体!? いくらすんのさそれ!」
「百五十万とか?」
「ひゃ、えぇ……」
酸素カプセルの値段なんて調べたこともなかったので、あれ百五十万円で買えるのか、という驚きと、百五十万を買おうとしている岩ちゃんへの驚きに思わず言葉が詰まる。酸素カプセルの値段の百五十万という数字が、ああいう物の相場を知らない俺には高いと言えばいいのか安いと言えばいいのかも最早わからない。
「いいだろ? 家にあったら帰ってからゆっくり入れるし、体調万全だったらパフォーマンスも上がるし」
「そんな……あのさ、岩ちゃん。岩ちゃんが俺のことめちゃくちゃ応援してくれるのはわかるけど、でもそんな高いもの、俺に買ってくれるなんてダメだよ! それでなくても俺のが給料安いから家賃とか諸々融通してもらってんのにさ」
「おまえな! 勝つ気あんのか!?」
急に声を荒げる岩ちゃんに驚いてびくりと肩がはねる。
「散々言っただろうが! お前の調子はチームに影響するし、チームには金出して試合応援してくれたりファンクラブ入ってくれるファンの人たちがいる。お前が万全の状態で試合に臨むことは、お前一人の問題じゃねぇべや! お前はチームやファンの人、それにバレーボール界のためにいつも一流でいろ!」
「ハ、ハイ……」
「そのために必要なモンがあるなら、俺が用意する」
腕を組んで、獰猛なチーターみたいなつりあがった瞳で睨み付ける岩ちゃんに、俺は自然と正座をして項垂れて説教を聞く。
「返事は?」
「ハイ、よろしくお願いします。パパ」
「誰がキャバクラだ」
岩ちゃんの拳が、項垂れる俺の額をこつん、と軽く小突いたので、俺はそっと顔を上げて岩ちゃんの顔色を窺う。
親や兄弟以外で、俺にここまでしてくれる人は世の中にいったいどれくらいいるだろうか。きっと岩ちゃんくらいだ。こんなのおかしいってくらい、岩ちゃんは俺を支えてくれる。それはお金とかじゃなくて、心だってそうだ。いつだって俺は岩ちゃんが俺を叱る声に背中を押される。隣に立って、お前のプレーが一番だ、お前を応援してる、と励ます温かさに勇気をもらう。
「ほら、もう寝るんだろ?」
時計に目を遣る岩ちゃんにつられて俺もそちらを見ると、時刻はもう夜の十一時を回っていた。早起きして練習に行くのだから、出来るだけ早く寝たかった。
「うん、岩ちゃん大好き」
岩ちゃんへの溢れる気持ちをそのままに、俺は岩ちゃんの腰にぎゅう、としがみつく。
「おうおう、一生好きでいろ」
岩ちゃんの腰に顔を埋めて抱きついている俺には、岩ちゃんが今どんな顔をしているのかわからないが、でもその笑い混じりの声に、岩ちゃんが目を細めて子どもみたいな顔をして笑っているのが容易に想像できた。
「来世も好き」
「及川は恩を忘れない生きものだったか」
そう言って岩ちゃんは抱きついた俺を半ば引きずるようにして、隣の寝室へと歩き出す。
「俺岩ちゃんの老後の面倒も見るよ」
「老老介護かよ」
岩ちゃんが笑って、俺の頭をぽんぽんと優しく叩いた。
「ほら着いたぞ。俺も一緒に寝てやるからもう寝ろ」
「うん、週末はセックスしようね」
「土日の試合勝ったらな」
「俄然やる気が」
「おうおう、凹ましてこい」
なめらかなシーツに包まれると、一日の疲れがどっと溢れて来る。頬にあたるシーツの冷たい感触が気持ち良い。広いベッドはスプリングも上質だ。俺は岩ちゃんの眠りの邪魔にならない程度に、指先だけをほんの少し絡ませる。シーツはまだひんやりとしていたけれど、隣から伝わる岩ちゃんの高い体温がゆっくりと俺を温めて、だんだんと瞼が重くなる。隣から寝息が聞こえ始める。
「岩ちゃん、俺がんばるね……」
眠りの淵で、なんとか伝えようとした言葉が、吐息と共に掠れて零れる。
「だいすき……」
夢か現かもわからないおぼろげな意識の中で、俺は赤いユニフォームを着て、広い体育館の真ん中で金色のトロフィーを抱えている。紙吹雪と三百六十度を取り囲む観客の鳴り止まない歓声、チームメイトが喜ぶ声の中、俺はただ一人、岩ちゃんに向かってトロフィーを掲げ上げるのだ。